126『LIVE AT SUM』大阪“BAMBOO(バンブー)”その1

“こだま”は各駅停車である。

それなのに、

「ちょっと、駅に止まっている時間が長過ぎるんですよね」

と、しょーもないことを言う
GoodlovinのKoくんと、
新大阪に向かっていた。

新幹線に乗るのは久し振りだ。

シートに座るなり、
大阪までの3時間もの間、
ずっと喋り通しだった
かまやつさん(かまやつひろし)の
ことを思い出した。

スパイダース時代のエピソードを始め
世間には公表できない
芸能ネタのよもヤバ話の面白さに、
トイレにも行けずに
ずっと聞き入っていた覚えがある。

「息子がまだ幼いとき、グリーン車ではしゃいでいたら、“ちょっと、うるさいわよ!”と、前席の女性がぬっと顔を出したんだ」

かまやつさんの話を受けて、
大口さん(大口広司)も
自らのエピソードを持ち出した。

「“親の顔を見てみたいと思ったの、ごめんあそばせ”」

そう言って、
前席シートの背もたれから顔を出し、
真顔で皮肉ったのは、
なんと、
樹木希林さんだったとか。

偶然に乗り合わせたのだが、
その時の大口ファミリーは、
シリアスとブラックジョークとの狭間で
何とも恐縮したらしい。

僕にとっての
新幹線のリアルな思い出は、
何といっても
山口冨士夫せんせいである。

前にも話した事があるが、
冨士夫が車掌を気取って(?)、

「ご乗車の皆様、マリファナを拝見いたします」

と言い放ち、
車輛のドアから現れたときの姿を、
僕は生涯忘れることができないだろう。

まるで乗車券を確認する
物腰の柔らかい車掌のように、
前席から順番に、
“マリファナ、持ってますか?”
と訊いて廻る冨士夫に、
“コレがワルい夢でありますように”
と祈ったものだった。

また、当時はまだ健在だった
新幹線のビュッフェを
バンドのメンバーで占領して、
(一般の客たちが怖がって出て行っちゃったんだけどね)
貸し切り状態で
何万円も使って飲み食いした白昼夢は、
今でもしっかりと
脳裏に焼き付いているのである。
(その節はご迷惑をおかけいたしました)

あの時代は、
何かにつけアバウトに
物事が動いていた気がする。
サラリーマンの出張族は、
缶ビール片手に
モクモクと煙草を吸い、
ほろ酔い加減の赤ら顔で
新幹線で移動していたのだ。

改めて時代とともに、
生きている環境や常識が、
クルクルと変わっていくのを
感じる今日この頃なのである。

「ここら辺までが、かつては東京への通勤圏内だったんだよな」

三島駅に停車したときに
訳知り顔でKoくんに言った。

「へぇ、そうですか」

Koくんは興味なさそうに
相づちを打つと、

「ところで、今回の音は聴きましたか?」

と返す球を違えて送ってくる。

山口冨士夫の新しいCD
『LIVE AT SUM』の音源の事である。
今回はこのCD発売のタイミングで、
大阪くんだりまで出向くのであった。

「聴いたよ」

コチラも同じように
そっけなく返してみたのだが、

「で、どーでした?リズムや間のとりかたとか、ひとりなのに、なんか、シカゴブルースみたいな感じですよね」

「シカゴブルース?」

彼の言うシカゴブルースとは、
50年代にマディウォーターズが
アコースティックギターから
エレクトリックギターに持ち替えて、
リトルウォルターや
ウィリーディクソン達と
バンドスタイルで演奏した
黄金期のチェスサウンドを指している。

そう言われて、
冨士夫自身の中にも
そんなイメージが
あったのかも知れない、
と改めて想ったりしたのだ。

そういえば、
北鎌倉に住んでいたころ、
ウォークマンを聴きながら、
冨士夫がクスクスと笑っているので、
落語のテープかなんかだと想い、

「何聴いてるの?」

と訪ねたことがある。

「ただのブルースだよ、面白れぇんだ」

そう言いながら、
愉しそうに笑う冨士夫を見て、
“よっぽど好きなんだな”
と感心した覚えがある。

シカゴブルースは、
リズムの揺れが格別なのだという。
ブルースを継承する冨士夫は、
自らが感じたそんな想いを
ステージで表現したかったのだろう。

ギター1本で延々と奏でる世界は、
まさに憧れと現実とかが行き交う
パラレルワールドだったのかも知れない。

そんな事を想っていたら、
東京から4時間余りで大阪に到着した。

まずは新大阪から大阪に行き、
梅田辺りを彷徨いながら、
心斎橋からアメリカ村を通り、
難波へと向かった。

と、サラッと書くと
何てことはないのだが、
この行程をほとんど歩いて廻ったので、
3時間余りかかったのだ。

「Koくん、なんか喰って行こうよ」

そこらじゅうにある
タコ焼き屋を眺めながら、
ライヴハウス巡りをしていたのだが、
いいかげん腹が減ったのである。

「“BAMBOO(バンブー)”に着いたらカレーがありますから」

『LIVE AT SUM』の『SUM』は、
今では『BAMBOO』と名を変え、
カレーが美味しいという情報を
Koくんが仕入れていた。

「そうだな、評判のカレーを喰わなきゃな」

腹をとことん空かして喰うカレーは、
さぞかし美味かろう。

“もう少しの我慢だ”

疲労でつりそうな足をひきずりながら、
一歩ずつ前進するのであった。

16時50分の大阪着から
実に3時間20分後の20時に、
めでたくホテルにチェックインした。

30分ほど休み、
目的地に出かけることにする。
とはいっても『BAMBOO』は
ホテルの真ん前にあった。
いや、『BAMBOO』の前に在る
ホテルをブッキングしたのだ。

まあ、そんなことはどうでもいいか、
とにかくカレーが喰えるのである。
もはや、腹ごしらえが先決なのだ。
その後に冨士夫を思い出そう。

ボブ・ディランの写真が飾ってある
路地の入り口から
狭い通路を入って行くと、
左手にカウンターだけの
こぢんまりとしたBarがあった。

そこが『BAMBOO』である。

ガラス戸を横に引きながら中に入る。

すると、カウンターの中に
ハットがよく似合うマスターがいた。
コチラに気がついて、
初対面らしからぬ笑顔を向けてくる。

彼が高濱(たかはま)さんだった。

冨士夫たちとは旧友で、
60年代からのシーンを知りうる
貴重なる存在であり、
『LIVE AT SUM』の主催者なのだ。

「はじめまして」

「じゃ、ないよ。君とは2回ほど会ってるよ」

と言われた。

また、やっちまった。
“人の顔を覚えないにもほどがある”のだ。

とか想いながらも、
改めてご挨拶をして、
早々に当時の話をいろいろと
お聞きすることにした。

“あっと、その前に”

「そうだ、実は、とってもお腹がすいちゃって。まずは、評判のカレーをもらえますか」

いよいよ、その時がきたのだ。
ハングリー登頂の僕らは、
嬉々として山の頂上をオーダーした。

“いったい、どんなカレーなんだろう?”

高濱さんは背中を向けて
コップを拭いている作業を止めて、
ゆっくりとコチラに向き直り、
ハットを少し上にずらしながら、
簡潔にハッキリと言った。

「カレーはずいぶん前にやめてるよ、知らなかった?」

「えっ!?」

一瞬の沈黙のあと、

なが〜い 夜の
幕が上がった気がしたのである。

…………………………………………

大阪人が嬉しい時に飛び込む事で
有名な道頓堀川から南東に行くと、
演芸場や映画館などがある
千日前の娯楽街につながっている。

ソコにある難波花月といえば、
吉本のホームグラウンドだが、
そこを少しばかり行き過ぎると
観光客が宿泊するホテルゾーンに出る。

そこらの路地に『BAMBOO』はあった。

一見さんではとても入りにくい
ディープなイメージのある
細く狭い路地にあるのだが、
いったん入ってしまえば、
あったかいぬるま湯に
肩まで浸かるような
特別に気の許せる空間なのである。
(残念ながら、カレーは今はもうない)

改めて紹介しよう、
マスターの名前は
高濱賢一(たかはま けんいち)さん、
という。

大阪に生まれ、
大学が京都だったことから
若い頃は京都で暮らしていた。

『村八分』のテッちゃんとは、
京都の喫茶店で知り合ったのだとか。
そこは、はしだのりひこ(フォークルセダーズ)さんの
兄弟が営んでいた喫茶店だ。

はしだのりひこさんと
従兄弟(いとこ)だったテッちゃんは、
客として来ていた高濱さんと、
そこで意気投合したのである。

「髪を背中まで伸ばして、うっとうしいやっちゃなぁって(笑)、それがテツの第一印象やった。でも、知り合ったらめっちゃイイ奴やねん」

´60年代の終わり、
テッちゃんはまだ音楽をやっていなかった。

「そのうち、“バンドやってるねん”とか言い出すんやけど、出会った時はなんもしてなかったな。そのテツから、すげぇ、ギターが上手い奴がおんねん、なんて紹介されたのが冨士夫ちゃんや。冨士夫ちゃんは、まだチャー坊ん家に居候している頃だった」

その後、高濱さんはインドに行く。
スリランカやネパールを廻り、
1年後に京都に帰ってくると、

「村八分が出来てたって感じやねん。京都に帰ってきてブラブラしとったら、テツが“何もすることないんなら、コレでもやれや”って、散り紙交換の仕事を紹介してくれてん。ソレを冨士夫ちゃんもやる事になるんやけどな(笑)。オイルショックやらなんやらで、紙関係は良い金になった時代やった(笑)」

高濱さんは音楽方面には行かなかったという。

「ミュージシャンやるほどの才能はなかったからね、もっぱら見たり聴いたりして楽しむほうや。28歳の時から店を始めて、40歳で実は音楽も始めたんやけどね」

そう言いながら、
1枚のアルバムをくれた。
『千日前ブルースバンド』
そのままのバンド名だけど、
実に味のある音が鳴っている。

今回のアルバム『LIVE AT SUM』
の話に移ろうと思う。

「冨士夫ちゃんは、東京から何かと俺ん家に来るねん。そんで、1週間でも2週間でも暮らしてから東京に帰らはる。まあ、いろんな大人の事情があるねんな。そこら辺は言わんでも解かってな。そのうちに金がなくなると“ライヴでも演るか”って、ことやねん。部屋にこもっててもしゃーないしな」

この時期ではないが、
僕が冨士夫と再会した頃も、
ふっと東京から居なくなると
高濱さんの処に行っていた。
高濱さんの持つソフトな個性が、
冨士夫をリラックスさせるのだろう。

「冨士夫ちゃんが1人で演る時はそんな時や。突然演るんやから、知り合いにだけに連絡してな。普通に発表したら客が入り切らんから非公式というわけや。でも、このCDに入っている“オスやテツと一緒に演っているバージョン“は、わざわざ東京から来て演ってんねん。冨士夫ちゃんが来たことを告げると、京都からテツが何にも持たずに参加しに来たんや。“コレ貸せや”って、俺のギターやハープを使うんやけどな。テッちゃんは俺の1年先輩やねん。2年先輩が冨士夫ちゃん。あの時代の年上っていうのは一生もんやからな、一生威張ってんねん(笑)」

そう言って高濱さんは、
時空を超えた映像を観ながら
懐かしそうに笑った。

僕らは、
冨士夫とオスとテッちゃんが絡む、
当時の演奏シーンを
映像で眺めていたのである。

録音テープの他に、
映像も存在していたというわけだ。

「だけど、これがテツの最後のステージになった。わからんもんなぁ。その時はそんなこと考えもせんかったわ。テツは、“なんか調子悪いねん”って言ってたけど、まさか、その翌年に逝くなんて考えられへんかった」

そう言いながら高濱さんは、
その日、はじめて寂しそうな顔をした。

「もう1杯ください」

こうなったら呑み倒れてしまおう。

「同じものでいい?」

大阪難波千日前、
ながーい 夜長に お月さまが、
妙に黄色く輝いて、

まさに、
空きっ腹に染み渡る

“ただのブルース”でも聴いているような
そんな気分だったのである。

【次回につづく】

(1999年大阪を中心に)

PS/

山口冨士夫 “呼んでおくれよ” from『LIVE AT SUM』

山口冨士夫『LIVE AT S UM』
2018年12月12日発売

GOODLOV059 / ¥3,500(税抜)

2枚組CD
中村宗一郎(ピースミュージック)による2018年最新マスタリング。
見開きW紙ジャケット仕様。
GoodLovin’Production

 

 

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