カスタムショップの発展 ~Jonh Page 3~

前回はこちら
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/john-page-2/

かくして、1989年のR&Dの責任者にもなったジョン・ペイジですが、ここではマーケティング部門と激しく討論を交わしていました。

ジョンの考える1980年代当時のFenderの問題点は

  1. 他社の真似ばかりしている (他のブランドのヒット商品の模倣)
  2. 企画→制作→生産までの速度の遅さ (流行りが終わるころにプロダクトが完成する)

で、そしてこれに対応できるのはカスタムショップであるとジョンは訴えていきます。

ちなみにこの時点ですでにジョンはマイケル・スティーブンスに代わってカスタムショップの代表とも言える立場になっています。

マイケルはフェンダーに来たものの、ギターを沢山作って売りたいというビジネス的な考えが元々無かった人物。

なんとなく月に2.3本作ればいいと思っていたそうですが、そこはフェンダー。
“早く大量に”ギターを製作するということを求められます。
ジョンはフェンダーに長くいたこともあって、そのことを理解しており、かつ他のセールス部門の人たちにもどういう対応をするのが良いかということを分かっていました。

ということで、マイケルのアシスタント→パートナー→ボスという風に立場が変わっていきます。
(製作の上での上下関係では無く、あくまでオーダーを取ったり、ほかの部署とやりとりする立場という意味でのボス)

本人たちはただの”適材適所”といった感じで考えていたようです。

カスタムショップの新しいメンバーたちの雇用などもジョンに一任されることになりました。

1990年には盟友であるマイケルがカスタムショップを離れることになり、同時にジョン・ペイジは、カスタムショップの総責任者となります。(R&Dとカスタムショップも統合されます)

シャーベルのルシアーだったAlan Hamel (アラン・ハメル)
元々の知人であるJohn English (ジョン・イングリッシュ)
サドウスキーで抜群の人気を誇っていたJ.W Black (JWブラック)。
等々、数々の一流ルシアー達がジョンの招致などでカスタムショップに続々と集結していきました。

これまでの経緯や多くのルシアーが来たことを見ても、ジョンは非常に人に好かれる人物で求心力のある方だったのではないでしょうか?

数え切れないほどのギターがジョンのリーダーシップの下で作られていき、多くのビルダーたちがこのカスタムショップの中で育てられました。(マスタービルダー昇格までは”Apparantice”として各マスタービルダーにつき修行をする)

そこからの数年間、ジョンはカスタムショップのマネージャーとして尽力を尽くし、カスタムショップを盤石なものとしました。

“Relic”モデルの立役者でもあります。(下記リンクはRelic誕生について)
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/jw-black-vince-cunetto-2/

そして1998年、ついにジョンはあるきっかけをもとにフェンダーカスタムショップを離れることを決意します。

~続く~

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