Larry Dimarzio ~リプレイスメント・ピックアップを生み出した男~ 1
リプレイスメント用のピックアップとしてSeymour Duncanと並んで最も有名なメーカーであるDimarzio。
創設者であり、現在もなお活躍を続けているラリー・ディマジオ氏の人物像や歴史について本人の伝記やインタビューに基づき、深掘りします。
彼の伝記の中で現れる数々のミュージシャンたちとの出会いもお楽しみください。
1948年、ニューヨーク生まれ。イタリア系の家系。
ラリー・ディマジオ(以下ラリー)が、音楽への興味を持ち始めたのは6歳の時。オペラファンの叔父に連れられて、”椿姫”を見に行ったときでした。
その音は、これまで映画館や叔父のレコードプレーヤーで聞いたどの音よりもはるかに大きく、素晴らしいものだったと記憶しているそうで、帰り道にブリンディジ(別名「酒飲みの歌」)を口笛で吹いていたそうです。
13歳の時に、母に音楽のレッスンを受けるべきだと決められ、アコーディオンかギターのどちらかを選ぶように言われたラリーはギターを選択。
この頃のイタリア系の家庭ではアコーディオンが人気で、ラリーの親戚にもアコーディオンのプロ奏者がいたり、アコーディオン奏者のLawrence Welk(ローレンス・ウェルク)がホストの人気のテレビ番組がありました。(このテレビ番組はなんと1951年から1982年まで続けれた長寿番組です)
しかしラリーとその世代にとってアコーディオンは少々古臭くてダサいものと感じていました。
そしてビートルズの台頭。
ラリーの好きだった女の子もポール・マッカトニーに夢中だったこともあり、当然のごとくギターを選びました。
自宅の訪問レッスンが始まり、Mel Bay(アメリカの大手音楽系出版社)のソングブックから「フレール・ジャック」(日本では子供の手遊び”グーチョキパー”)と「ジングルベル」を教わることになります。
しかしながら、こうしたレッスンは拷問のような苦痛な経験だったようです。
しばらくしてから、レッスンで習う退屈な曲から離れて、フォークミュージックのPeter, Paul and MaryのSong Bookなどを手に入れて、歌の伴奏をするようになります。
その後、年上の従兄弟の影響を受けて、電子工学を学ぶためにブルックリン・テクニカル・ハイスクールに入学。
(従兄弟はラジオを含むあらゆる真空管機材を修理するような人物だったそうです)
この学校はいわゆる難関高で、ラリーが入学した当時は、9,000人がテストを受けて合格したのはわずか3,000人。
そして、入学してからもその厳しさに1年目の終わりまでになんと約1000人(30%)ほどの生徒が学校を去りました。
合板の作り方、コンクリートの作り方、鉄と鋼の違い、鋼はどうやって作るのか等々を学び、1年目が終わる頃(14歳)には様々なマイクロメーター(精密測定工)を使って計測をすることなども出来るようになりました。
その後、電子工学を専門として学ぶようになります。
学校以外では、バンドでの活動も始め、この頃組んでいたバンドでニューヨークの万国博覧会でのバンドコンテストにも出場したそうです。
卒業後はRichmond Collegeに進学し、高校から引き続き、電子工学を専攻しながらバンド活動も続けました。
平日は大学の授業へ行き、週末はフィルモア・イーストにライブを見に行ったり、ロングビューカントリー・クラブで過ごしたり、バンドのリハーサルしたり、バイトをしたりと、大学生らしい日常を送りました。
夏休みの間は、建設現場で仕事をして、学費や生活費を稼いでいました。