Mike Eldred マイク・エルドレッド ~フェンダーカスタムショップの改革とジョン・ペイジからの移行~ 2
前回はこちら。
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/mike-eldred-1/
——Charvel/Jackson期———–
さてChervel/Jackson(シャーベル/ジャクソン)のグローバー・ジャクソンの元で働くことになった18歳のマイク・エルドレッド。
初日、ボディに使うアッシュ材の製材(四角の材をフラットにする)と接着を任されることに。
マイクは言われた通り、20枚強の2ピースアッシュを製作します。
次の日、マイクが接着した板をグローバーが地面に叩きつけると、板は接着面から見事に真っ二つに。
そこでグローバーは”それでは正しいやり方を教えよう”と正しい接着面の作り方やクランプの使い方を伝え、マイクは全てやり直したそうです。
そうして様々なトライ&エラーを繰り返しながらギターの製作について学んでいきました。
初期のシャーベルは、経営的にはかなり厳しかったようで、ビジネスというよりものグローバーの情熱で支えられていました。
勤め始めてからの間もないある日、マイクの記憶に残る出来事がありました。
グローバー : “今夜、Billy Gibbons(ビリー・ギボンズ)が来るから、もし良かったら付き合わないか?”
マイク : “もちろんです!”
その夜、シルバーのカウボーイハットのビリーがシルバーの大きなリムジンに乗って現れました。
持ってきてくれたレコードにサインを書いてもらい、その夜は皆で長い時間語らったそうです。
それからビリー・ギボンズの口コミで”あらゆる可能性を追求できるカスタムギター”の噂は急速に広がりました。
マイクともう一人の従業員のみだった当初の経営はまさに火の車でしたが、シャーベルはわずか1~2年の間に急成長を遂げることになります。
のちのシャーベルを支える”Woodworkers”という地元の家具会社からTim Wilson(ティム・ウィスソン)とMike Shannon(マイク・シャノン)も初期段階でシャーベルに加入。
その頃、製作したボディをリプレイスメントパーツで有名な”Mighty Mite”や”Dimarzio”に卸していたりもしたそうです。
1979年6月にはアトランタで開催されたNAMMショーでシャーベルのオリジナルギターを一般に向けて初披露。
それはマホガニーボディのストラトキャスターで、無塗装のオイルフィニッシュのギターだったそうです。
1970年後半から80年初頭にLAに数々のバンドやギターリストが登場したことで、LAのミュージックシーンが一気に花開きます。
その時のギターのスタイルはいわゆるメタルのようなものが多く、グローバー自身がメタルを弾いていたこともあって、どのようなギターを欲しがっているのかを熟知していました。
そして当時のLAには競合相手となるギターメーカーが無かったそうで、シャーベルは一世を風靡することになります。
マイクが加入した約2年後、1979年末から1980年の始めには元々110平方メートルだった工房の敷地は倍となり、さらに2年後にはその倍の敷地面積に拡大しました。
そしてマイクのようなギター作りに興味を持った10代後半から20代前半の若者たちが続速とグローバーの元に集まったそうです。
最初期の3人。
左からGrover Jackson, JoAnn Pieroth(グローバーの妻), Mike Eldred
~続く~