Mike Eldred マイク・エルドレッド ~フェンダーカスタムショップの改革とジョン・ペイジからの移行~ 11
前回はこちら。
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/mike-eldred-10/
さて、工場移転に伴い、ジョン・ペイジが去ったことで、生産管理の完全な責任者となったマイク。
移転したことでカスタムショップが使用できるスペース自体は狭くなりましたが、結果的には分散して設置されていた全てが一つのところにスッキリとまとめられることになりました。
それまで様々な工程が別々の場所で行われており、製品の一貫性や品質を保つことが難しい状態でした。
“土砂降りの雨の中を屋根も廊下もない場所を通って別工程に運ばなければならないネック”
“こちらは暖房が効いているが、あちらには暖房が設置すらされていない”
等々、品質保持のためのデメリットが移転することで解消されることになりました。
当初はメイン工場と併設されたことで、カスタムショップの独立性が失われることが恐れられていましたが、実際のところは逆でした。(マイク談)
以前は、多くの作業をレギュラーラインからの労働力でまかなっていましたが、移転後は完全にカスタムショップスタッフのみで行うようになりました。
そしてカスタムショップの製品にのみに専念するスタッフは自己の基準を高いレベルにもっており、研磨や塗装などのあらゆる面で、レギュラーラインと一線を画した仕上がりとなっていきました。
また狭くなったことによりオフィスや各作業台など全てが一つのところに集まることでコミュニケーションもよく取れるようになりました。
前述しましたが、人事に関しては、新しいカスタムショップの体制や姿勢に賛同できないスタッフにはハッキリと退職を促していたそうです。
“My Way Or The Highway”(私に従えないなら出ていけ)
上記のような表現にはなっていますが、実際のところは上手く仕事をサボっていたやる気の無いものに限定した人事だったようです。
これによりカスタムショップの管理体制やスタッフ間での意識が統率されていくことになります。
順風満帆にカスタムショップの変革を行っていたマイクですが、2002年にマイクとともにカスタムショップを率いていた重要人物であり、マーケティング部門における責任者であったDan Smith(ダン・スミス)が退職。
ダン・スミスからの推薦もあって、マイクは元々の製作部門の担当からマーケティング担当に移ることになりました。
マイクが抜けたことで、この年の一時期は製作部門がかなり混沌とした状態に陥ったそうです。
様々な困難を乗り越えてきたマイクですが、実は1996年から2010年代前半までに”三度”も退職しています。
一度目は、フェンダーに入った初年度となる1996年。
フェンダーの経営のやり方や生産プロセスを見て心底ガッカリしていたタイミングで、古巣であったジャクソンからの高額オファーが来たことで、退職を決意。
実際に、お別れパーティーが催され、マイクには退職記念のギターが1本渡されました。
しかしそのわずか1週間後、ジョン・ペイジからの電話で
“経営陣の一人であるカートが君に戻って欲しいと言っている”と告げられ、マイクはフェンダーに戻ることに決めました。
ちなみにもらったギターは律儀に返したそうです。
ジョン・ペイジは”経営陣の一人であるカートが”と言っていましたが、実際のところは、
“俺が辞めたときに後を引き継ぐのはマイクだ”と経営陣を説得したそうです。
もう二回は、ともに上位経営陣やプロダクションスタッフとの衝突と軋轢でした。
マイクや他のスタッフは皆、カスタムショップのクオリティを維持するためには、生産量をある程度コントロール必要があると考えていました。
しかし、経営陣は”とにかく沢山製作しろ”という姿勢だったことなどが原因でした。
それでも理解のある経営役員や古参スタッフからの説得で退社をしないことに決めたそうです。
~続く~