Mike Eldred マイク・エルドレッド ~フェンダーカスタムショップの改革とジョン・ペイジからの移行~ 5
前回はこちら。
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/mike-eldred-4/
リー・ロッカーとのバンドで、計3枚のCDをリリースしたマイク。
8年程勤めたヤマハを退職します。
それから1年程度はバンドや音楽活動のみに専念しました。
しかし家族と共に安定した生活を過ごしたいと考えたマイクは、バンドをやめて新たな仕事を探しました。
楽器業界ではなく、家族のためにも別の職業を当初は考えていたそうです。
しかし当時の責任者であったジョン・ペイジの誘いを受けて、フェンダー・カスタム・ショップに入ることとなります。(トッド・クラウズやステファン・スターンなどマスタービルダーを含むシャーベル時代の同僚が複数人いることから、その筋からの誘いかもしれません)
1996年3月6日、フェンダーのカスタムショップスタッフとなったマイク。
最初はただのスタッフとして時給8ドルほどで始めることになりました。
ここからマイクは多くの変化をフェンダー・カスタム・ショップにもたらしますが、ここで当時のフェンダーカスタムショップの状況をおさらいします。
初代マスタービルダーであるマイケル・スティーブンスとジョン・ペイジにより1987年に設立されたフェンダー・カスタム・ショップ。
マイケル・スティーブンスについてはこちら↓
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/introducing-fender-masterbuilders/
最初期(87~90年頃)は1本1本が全てハンドメイドの正に”カスタムギター”といわれるものを多く製作していました。
23坪程度の非常に小さな”工房”だったカスタムショップは、売れ行きがあがるにつれて、工房はどんどんと大きくなり、ジョン・ペイジの求心力の元に
シャーベルのルシアーだったAlan Hamel (アラン・ハメル)
元々の知人であるJohn English (ジョン・イングリッシュ)
サドウスキーで抜群の人気を誇っていたJ.W Black (JWブラック)。
等々、数多くの一流ルシアー達をどんどんと迎えていきます。
アートギターと呼ばれる豪華絢爛な1点もののギター、アーティストモデル、セットネックモデル等のカタログモデル、ダキストモデル等々、非常に多岐に渡るモデルの製作するようになりました。
1995年頃にはヴィンテージのリイシューとなるCunettoによる”Relic”のシリーズが始まりました。
レリックモデルの誕生についてはこちら↓
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/birthofrelic/
そしてレリックシリーズと同時期の大きな出来事として、フェンダー工場の移転がありました。
165,000平方フィート(15,330平方メートル)という恐ろしく広大な土地に建てられた新工場。
それまで独立した場所にあったカスタムショップは、新工場の中にレギュラーラインの生産ラインと一緒に併設されることになり、カスタムショップの敷地面積が大幅に小さくなりました。
マイクが加入したのは、その頃~直後でした。
~続く~