Who is George Blanda? ~レジェンドと称されるビルダー~
30周年を迎えたフェンダーカスタムショップを記念して、創業時の”マスタービルダー”から8名が再集結して、2017年に完成した企画の“2017 Fender Custom Shop FOUNDERS DESIGN PROJECT”。
8名の内の7名のビルダー達をこれまでのブログで紹介してきましたが、いよいよ最後の一人です。
“マスタービルダー”8名と紹介されていますが、実際のところジョージはマスタービルダーという肩書を持ったことはありません。
そんなジョージですが、フェンダー加入から35年を経て、昨年2020年についに退職することになりました。
これまで数多くのビルダー達が入社しては独立していく中、ジョージはフェンダーに長く残り続けました。
“レジャンド(伝説)”や“サイエンティスト(科学者)”とも称されている彼はどんな経歴で、どんな影響をフェンダーにもたらしたのでしょうか。
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1950年代にアメリカンフットボールのシカゴ・ベアーズでクオーターバックとして活躍した父の元に生まれる。
(なんと殿堂(“Hall of Fame”)入りしています!!)
Beatles, Cream, Jimi Hendrixなどを聴いて育った彼は、中高生頃からバンドでプレイするようになります。
バンドが解散した時に”これでRockは終わりだ”と感じたジョージは持っていたギターを全て売却して、アート(彫刻)の勉強を始めるるものの、その頃からなぜか誰に教わることもなく自主的にギター製作をしていたそうです。
おそらく彫刻の技術はギターの木工加工にも生かされたのではないでしょうか。
そしてバンドの再結成が決まった頃、金欠だったジョージはポーンショップ(質屋)で$25で買ったジャンクギターを自身の手で使えるようにリペアします。
同時期にシカゴ西部にあるデ・カルブ(DeKalb)にあるAx-In-Hand Guitarというショップでパートタイムとして働き始め、ギター製作やリペアなどを学んでいくことに。
その後、カリフォルニアに移住して別のギターショップで働いたのち、ギター職人としての腕がフェンダーのマーケティングディレクターであるダン・スミス(Dan Smith)の目に留まり、1985年10月、Fenderに入社します。
元々、カスタムショップを設立するためのメンバーとして呼ばれたものの、最優先事項となったFender
USAラインの製品開発を手伝うために”R&D”部門に招集されます。
1985~86年の間に円の価値が急激に高まり、(1ドル=250円⇨125円)
それまで安価だった日本製のフェンダー製品の値段が上がったことで、アメリカ国内での生産の需要が高まりました。
“日本製のギターは良いけど、高くなってしまったらアメリカ国内では意味がない。”
ここで、USメイドのフェンダーで”ハイエンド”や”ヴィンテージ”ではないもので、クオリティが高くかつ価格を抑えたものを生産していくことを考えます。
そして、フェンダーは当時週に7~8本だった生産台数を5年の間に日に150本にする計画を立てることに。
カスタムショップの設立よりも重要視されたその計画を達成するために、礎となる新しいデザインやスペックのギターを生み出すために、ジョージに白刃の矢が立つことになったわけです。
ちなみに2点支持トレモロの開発はジョージの功績と考えられています。
かくして、ダン・スミスとジョージの主導のもとに、フェンダーのベストセラーとなる”American Standard”シリーズが生み出されることになりました。
1986年に完成し、1987年1月のNAMMで発表されたアメリカンスタンダードシリーズは、当時低評価になっていたFender USAの復活の狼煙となるモデルとなりました。
この他にもクラプトンモデルの開発など、数多くの重要なプロジェクトに取り組んでいます。
~続く~