005『普通の人』何処へ行っても

005 『普通の人』何処へ行っても

1981年、北鎌倉での話。
鎌倉に向かう街道にある
小さな一軒家に僕は住んでいた。
季節は春先。
ちょうど桜の花びらが
裏山から庭に降り注いでいる頃。
「雪みたいだな」
なんて、縁側からそれをを眺めていた。

突然、“がたん!”と、庭木戸が鳴った。
その瞬間に庭の桜の花びらが散り消え、
代わりにエミリが二人のお供を連れて現れた。
まるで『水戸黄門』みたいに。
お供は、山口冨士夫と石丸忍。
印籠をかざしながら
「遊びに来たぞ!」ってな感じだ。
冨士夫はもとより、石丸忍のことも僕は知っていた。
『期待の若手グラフィック・デザイナー』として
デザイン誌に紹介されていたからだ。
(正直、なかなか虚像と実像が一致しなかったが…)
とりあえず、会えて嬉しい(と、思った)。
聞きたいことがたくさんある(ような気がした)。
明日は日曜だ。
明後日に会社に行くまでには、
時間はたっぷりとある。
……そう思った。

……が、明後日になっても
エミリと二人のお供は帰らなかった。

そう、お一人様は数日でお帰りになったが、
エミリと冨士夫は
そのあと、ずっと…我が家にいた。

その頃、僕の家族は妻と2歳になる娘。
そこに32歳の兄と23歳の妹が加わったことになる。
取り急ぎ、稼がなくてはならない。
広告会社にいたので、
仲の良い営業に頼んで
他社の仕事を回してもらった。
バイトだがいい収入になった。
その代わり、時間が無くなった。
広告会社のデザイナーとは
打ち合わせ芸者みたいなものだった。
(少なくとも私の場合は…)
朝から夜まで飛び回り、
喋り回り、描き続け、
会社もバイトもわからなくなった頃、
家に帰ったら家族が6〜7人増えていた。
「チナキャッツです」
その中の愛想の良い誰かが自己紹介した。
この団体さんは一週間ぐらいでお帰りになったが、
帰り際の由比ケ浜で
皆で花火をしたのを憶えている。
夜の浜辺に浮かぶ10人近くの人影。
『こんな夏もあるのか…』
…そう思った。

冨士夫は“普通の人”だった。
穏やかで遠慮深い人に見えた。
それでも、近所の居酒屋で
出入り禁止になったりしていたが、
僕にはそれさえも
信じられないエピソードのように思えた。

部屋での定位置は奥の角。
和室だったから、そこに座布団を敷いて座る。
いつもギターを抱えていた。
自分のギターは、来る前に全部燃やしたらしい。
「その火でバーベキューやったんだぜ!」
っと、息巻いていたが、
意味がよくわからなかった。
だから、ここで抱えてるギターは
家にあるボロボロのガットギター。
ボロボロすぎて、
チューニングもおぼつかないのだが、
それを実にかっこ良く弾く。

ある日、会社から夜遅くに帰ると
「トシ、お帰り」
っと、定位置でギターを抱えている。
ちょっと申し訳無さげに
「ビール、飲みてぇんだけど…」っと、くる。
こっちも疲れてるので
「“トンネル天国”唄ったらいいよ!」
っと、意地悪になる。
『チッ!』
ちょっと、苦笑いを浮かべ
「♪〜若い僕らの〜♪」
部分だけハモンドにして、
間奏も入れ、はしょらずに奏ってくれた。
夏の終わりの少し冷たい空気の中、
両手に抱えられるだけの缶ビールを買ってくる。
けっこう楽しかった。
めったにない瞬間だった。

夏も終わり、秋になると
誰しもが少しだけ思慮深くなる。
冨士夫&エミリーもそんな感じだった。
ある朝、目を覚ますと冨士夫が台所に立っていた。
「何してんの?」って覗いたら、
「見るなよ、トシ!」って怒られた。
出勤の支度をして玄関で靴を履いてたら、
「トシ、これを持って行ってくれないか」
って、冨士夫が改まって言う。
「何、これ?」
派手な手ぬぐいに包んである四角い箱。
「弁当だよ」
「弁当?」
どんなリアクションが適当かわからない。
とりあえず、
「ありがとう、行ってきます」
それを持って、
いつものように家を出た。

会社の気心が知れた何人かには
冨士夫のことを話してあった。
広告業界だったので
変わった人種が多くいる。
特に先輩や上司になると
こちらより詳しい“冨士夫”を語ったりした。
冨士夫が早くも伝説であること。
『村八分』がどんなに凄いか。
中には死亡説があり、
てっきり死んでると思っていたのに
「お前の家に居たのか!」
なんて言う先輩までいた。
そんな“冨士夫が作った弁当”である。
注目されないわけがない。
その昼のちょっとした話題となった。
「早く開けてみ!」
みんなにせかされて
派手な手ぬぐいを解き、
弁当のふたを開けた。
とたんに、あたりは大笑いになった。

真っ白なごはんの上には、
シャケのほぐし身で一言
『 トシ 』
と、書いてあったから。

(1981年春から秋/北鎌倉)

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