011『LONDON』 My Girl

011 『LONDON』 My Girl

ロンドンで映像の仕事をしている
カラトというプロデューサーが、
「冨士夫をロンドンに連れて行きたい」
と言って来た。
隣にはいかにもという感じの
英国人が同席していた。
とりあえず、二週間の滞在予定でロンドンに行くと言う。
その間にバックバンド・メンバーのオーディションと
冨士夫のプレゼンテーション・ライヴを行う。
コネクションがあるので、
レーベル契約にまで持って行く自信がある。
との説明だった。

渡航費/滞在費で150万を考えている。
あなたと冨士夫の分だ、と言う。
あなた? オレか!
マネージャー(見習い)になって三ヶ月、
下手なブッキングを数打ち当てたってコト?
会社をやめまなければ!?
いや、二週間だったら有休でいけるかも!?
なんて、へたれはまずそっちから考える。

いずれにしてもチャンスである。
時代は『New wave』だが、
必ずまた『Rock』が来る。
ロンドン中がそれを画策してるから、
そこに乗っけるんだと言う。
冨士夫は十分にロンドンでスターになれる。
ルックスは問題ない。
ミュージシャンとしても、
人間としても存在感がある。
それなのに日本人だということ。
つまり、これまでに無いキャラクターなのだ。

「バンドではダメ?」
一応、聞いてみた。
「他はいらない」と言う答え。
とてもメンバーに言える言葉ではなかった。

そのとき、冨士夫たちは
長野で楽しく合宿をしていた。
なんだか呑気な先輩たちだ。
村の集会所を借りて音を出したり、
滝に打たれたり?した写真が残っている。
つまり、4人の意志と精神を統一している
最悪のタイミングだったわけである。

携帯もない時代にどうやって連絡をとったのだろう?
憶えてないが、
すぐに冨士夫はとんで来た。
渋谷の店で交渉した。
隣には口の達者なドラムのヒデが同席した。
やはり冨士夫はバンドで
ロンドンに行くことを主張した。
僕らは、冨士夫自身が売れれば、
その後でバンドを連れて行くこともできるんだから,
って説得した。
交渉はみごとに決裂。
あまりにはっきりとした意志だったので、
カラトさん側からも
その後、二度と連絡は来なかった。

だが、この件がお流れになっても
冨士夫はケロッ!としていた。
金や名声よりも
冨士夫が欲しいのは家族。
新しいバンドは冨士夫にとっての
家族みたいなもんだったから。
その他は目に入らない。
交渉決裂もなんのその!
鼻歌まじりに
合宿地へとんぼ返りして行った。

まぁ、上手くいくとも限らないし、
ロンドン行って
「わ〜い、クスリがいっぱいだぁ〜」
なんて、マンモスジャンキーに
なっちゃうかも知れないしね。
そう思ってあきらめることにした。

1989年、ヴァージンから
レニー・クラヴィッツが
デヴューしたとき、
このときの妄想と重なった。

〜あのとき、冨士夫が
こんな感じだったらなぁ〜って。

1990年、Teardrops『Mixin love』のレコーディングで
サンフランシスコの Plant Studio を使った。
船を造る木材を使用したスタジオで、
木材を曲げて音の箱鳴りを演出した創りをしており、
ライヴ感を大事にするサウンドには
適してるというスタジオだった。
室内を歩いて回ると、
休憩室の横にバスタブが
あることに気がづいた。
「風呂にも入れるんですか?」
って聞くと、
それはレニー・クラヴィッツの
要望で作ったんだと言う。
彼が、何ヶ月もこのスタジオで
寝泊まりして音を録ったときのものだとか。
それを聞いていた冨士夫が一言。

「レニー・クラヴィッツって、いいよね。
なんか、オレに似てない?」って。

(1983年・夏)

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