021『シーナ&ロケッツ/カリブのフジオ』 SHEENA & THE ROKKETS – LEMON TEA (LIVE 1986)
021 『シーナ&ロケッツ/カリブのフジオ』 SHEENA & THE ROKKETS – LEMON TEA (LIVE 1986)
当時の僕らには、
とんと見る機会もない女の子たちが
束になって目の前にいる。
高校生くらいだろうか?
なかには中学生だっていそうな気がする。
そこに混じって男どももいる。
いずれにしても、
こんなに大勢の少年少女たちを
身近に感じたことはなかった……。
ホールから楽屋に行くと、
チューニングをしている冨士夫が
「ホントに俺がここで演ってもいいのか?」
って、ギターに目を落としたまま聞いてきた。
気持ちはわかる。
あの子たちが冨士夫を見て、
どんな反応をするのだろう…?
実は僕もそう思っていた。
『TUMBLINGS』のシーンでは、
少年少女はまず見かけない。
だいたいが冨士夫同世代か、
フールズ世代のあんちゃんたちである。
客のほとんどがミュージシャンじゃないの?
って日もある。
クロコダイルでは、チャージや飲食の会計は
帰るときにレシートでやるのだが、
「『TUMBLINGS』と『FOOLS』の会計は先な!」
って、店長のNさんに言われた。
ほっとくと、金を払わないで
飛んで行く輩がいるからだ。
それも一人や二人じゃない、
10人単位なのだ。
だからってわけでもないだろうが、
女性客は、ほとんど知り合いだ。
たまに、知らない女性客がいると
『あの人誰?誰か知ってる?』
なんて会話になる。
ましてや少女なんて、もってのほか。
少女はロックなんか聴かないものなんだ、
って思うほど縁がなかったから。
それが、『シーナ&ロケッツ』は
まるで景色が違った。
『渋谷LIVE INN』のホールには、
『You may Dream』が渦巻いているのだ。
このライヴに先駆けて、
3日間のリハーサルを行った。
『ロケッツの持ち曲を100曲は演ったぜ!』
と、冨士夫は息巻いていたが、
話半分にしても50曲だ。
リハビリ城の後の初仕事にしては
多少なりともハードである。
面白かったのは、ロケッツのベース・浅田くんと
冨士夫とのやりとりだ。
浅田くんは、それまで見た
どのベーシストよりも真面目なタイプだった。
昼食の愛妻弁当をほおばる姿は、
いかにも実直な性格を思わせた。
リハーサルの3日目に、
そんな浅田くんが意を決したように
冨士夫に寄って来て言った。
「冨士夫さんて、もっと怖い人かと思ってました」
少し、正体をなくすかのようにとまどう冨士夫。
「……そりゃ、ど〜も」で、ある。
「ひとつ聞いていいですか?」
「はい、ど〜ぞ」
「冨士夫さんみたいに
もっとロックするには、
どうしたらいいですか?」
この恐ろしく生真面目な質問に
驚き、たじろぎながらも、
冨士夫は見事に的確な答えを出した。
「まずは、愛妻弁当をやめることだな」っと。
さて、この過酷ともいえるリハーサルを
冨士夫は笑顔と思いやり(?)でこなし、
1月30日のライヴ当日を迎えることになる。
『LIVE INN』はもはや満杯である。
その会場の奥に、
たくさんのロック少年少女に混じって、
チンピラ風の下町高校生が与太っている。
現在、冨士夫やフールズの
CDをリリースしている
レーベルG代表Kの29年前の姿である。
「ほんと、たまたまっスよ、
たまたま友達と観に行っていて…」
たまたま『シーナ&ロケッツ』に来ていたらしい。
そう、この日、冨士夫がゲストで出ることは
情報としてなかった。
なにしろ、1月18日に鮎川さんと対談したのだから、
それから12日しか経っていない。
その間に3回のリハーサルをこなしてここにいるのだ。
「ホールの後ろのほうにいたんスが、
突然ステージに冨士夫さんが現れたんっス!」
っと、当日の様子を語る。
驚いたKは、「おおっ!」っと、
叫びながら同年輩の少年少女を蹴散らし、
ステージ前まで激進したらしい。
「そのときの冨士夫さん、カリブ風のハットと
白フチのサングラスをかけて出て来たっス!」
と言われて思い出した。
奴は変装していたのだ。
なにを思ったか知らないが、
あのときの冨士夫は、
いきなり“カリブのフジオ”に変身して
ステージに飛び出した。
客は、いったい何者が出て来たのか
わかっていたのだろうか?
冨士夫はそんな格好で、
アウェーのプレッシャーを
はね除けようとしたのだろうか?
「周りの客たちはすんごい喜んでましたね」
と、言うから、
冨士夫の存在はわかっていたのだろう。
ライヴの中ほどで冨士夫コーナーがあり、
“ロック・ミー”とか“誰もが誰かに”を演る。
これは、後に“シーナ&ロケッツwith冨士夫”
ステージの定番となるパターンだ。
それにしても冨士夫はすごい。
1年間のリハビリ城の後の最初のステージだ。
勘も鈍っていただろう。
それなのに、3回のリハーサルで何十曲も覚え、
3日間のステージをこなした。
それも、なれないアウェーでのスポットの中、
鮎川誠というギタリストとのバランスを計りながら、
シーナも引き立てなければならない。
「彼らの曲は覚えやすかったし、
指が勝手に動いちゃうような感じだったからさ、
最初からスムーズに音を出すことができたんだ」
と、『So What』で冨士夫は言っている。
同じ本で鮎川さんは
『冨士夫ちゃん、全部自分で決める人やし、
自分の中に引き出しやらが沢山あって、
曲が始まったら、その曲を良くしようっていう
本能が強い人やし。
伝わってくるっちゃ、冨士夫の音は』
と言ってくれている。
他のバンドに参加するなんて
あり得なかった冨士夫と、
滅多にゲストを呼ぶことのない
『シーナ&ロケッツ』との
ジョイントが始まった。
まずは『LIVE INN』の3日間。
出だしはすこぶる好調である。
しかし、惜しいかな、
“カリブのフジオ”が見られたのは、この時だけだった。
(1986年1月〜2月)
※“カリブのフジオ”が見れる
https://www.youtube.com/watch?v=9DYBalCYic4&spfreload=10