033『バウスシアター』 TEARDROPS

033『バウスシアター』  TEARDROPS

常にバランスが良くて、
安定したパフォーマンスができるミュージシャンたちがいる。
どこで演っても安心して見ていられるので、
「さすが!」っと、感心してしまう。
そう、信頼できる才能の持ち主たち。
それを、世間では「プロ」って呼んだりするのだ。

それに照らすと、『TEARDROPS』は、実に気まぐれだ。
何かのスポーツじゃないが、演ってみなきゃわからない。
リハは十二分に繰り返した。
誰もラリッてなんかいないし、
アルコールにやられるほどヤワじゃない。
でも、なんでだろ?!
何処を向いてるのかさえ、判らない時があるのだ。

そう、安定したパフォーマンスなんてものの代わりに、
『TEARDROPS』は妙な緊張感を呼んだりする。
計算ができない分、
先も読めない予測不能のグルーヴ感だ。
そのお陰で、うなだれるほど
がっかりするステージにも出くわすが、
付き合っていれば、
そのうちに、想像もしなかったほどの
高揚感も体験させてくれることがあるのだ。

そんな想いは、他ではできない…。
非現実に連れて行かれる快感のようなもの。
背中が“ゾクッ”っとして、
一時的に我を忘れることもある。
はたして、それがいま見ているステージで起きるのか?
それは誰にもわからない。
きっと、演奏している本人たちにさえ
わからないのだろう。
だから、なるべく決めごとを壊す。
曲順を無視して、必要なら歌詞までも変えちまう。
たったいま起きるかも知れない
予期しない感覚のために
毎回のステージがあるのだ……。

「映画館なんてどうでしょう?」

O氏から連絡がきた。
ライヴハウスやホールといった、
既製の場所以外でライヴができるスペースの
ブッキングを頼んでいたのだ。
“ゾクッ”っとする瞬間を作るためなら、
ステージ環境も意外性があったほうがいい。
冨士夫たちも同じ気持ちだった。
O氏は、この頃の『TEARDROPS』を理解して
とても助けてくれた人である。
後には、『THE YELLOW MONKEY』を
世に出したとも聞いている。

吉祥寺の北口を東に進み、
風俗街を抜けたところにその映画館があった。
『吉祥寺ロマン劇場』という。
高校生の頃、ここらで遊んでいた身としては
妙に懐かしい危険地帯でもある。
O氏がブッキングしてくれたのはここだった。
日活系なのだが、ロマンポルノの衰退で
映画館そのものが“お役御免のお取り潰し”
になるということだった。
そんな聖域でライヴができるというのだ。
こんなシチュエーションは滅多にない。
1989年6月10日、浮世絵の緞帳をバックに、
『TEARDROPS』は“大暴れ!”
久々に本領を発揮した。

そのプランの延長線上に『バウスシアター』がある。
こちらは多目的スペースの先駆けといってもいい。
通常は厳選した映画を上映しているのだが、
条件次第でコンサート等にも貸し出すのだ。

『TEARDROPS』が『バウスシアター』
で演奏したのは計3回。
1回目は、1989年の9月30日〜10月1日、
ゲストに『グレイトリッチーズ』と『MOJO-CLUB』を迎えて
〈谷間のうた Vol.3〉というタイトルで2daysを行い、
2回目は、翌1990年の6月1〜2日に
アルバム『MIXIN’ LOVE発売記念
TOUR OF MIXIN’ LOVE’90 TEARDROPS 2DAYS』
というタイトルでキャンペーンを行っている。

そして3回目が1990年の10月19〜20日、
ケーブルTV用の撮影でもあったが、
『TEARDROPS 2DAYS』
というタイトルでライヴを行ったのだ。

その、「10月19日のライヴ映像が
気に入った!これを出そうよ」
と、カズが言ってきた。

カズには『TEARDROPS』への“想い”を託している。
現世で、当時の空気感を伝えられる
唯一のメンバーだからだ。

それじゃあ、まぁ、呑もうじゃないの。
だから、とにかく、打ち合わせなんだから、
呑んでいろんなことを確認しなくちゃね。
そんなこんなで、カズの地元で呑むことにした。

昔と違い、僕らはすぐに酔っぱらっちまうのだが、
中身は何にも変わっちゃいない。
カズは相変わらずの皮肉屋で、
物事を斜めに眺めては毒を吐く。
斜に構えながらも、懐かしそうに当時を思い出すのだ。
冨士夫がなかなか曲ができなくてカズに頼ったこと。
そんなときの青ちゃんは、知らんぷり。
だから、カズが冨士夫の部屋に行くのだが、
この二人の“もと村八分”は、カズにとっては兄さんだ。
9歳と7歳年上の“もと村八分”の兄さんたち。
だから、やっぱりどこかで遠慮してしまう。
『FOOLS』の時とは、勝手が違うのだろう。
カズは、一歩引いたカタチで
バランスをとっていたように思う。

ドラムの佐瀬とは、中学時代からの同級生。
優等生の佐瀬は、高校が野田元首相と
同じだったっていうんだから
世の中はわからない。
なんといっても東大を出ているからな…
東洋大学のほうだけどね。
カズと佐瀬、二人は仲が良いのか悪いのか?
つるんでみたり、喧嘩したりして、
なんだかいつも忙しなかった。

『MIXIN’LOVE』のレコーディングで
サンフランシスコに行った時、
あとから現地入りした僕のところに佐瀬が来て、
「トシ、頼みがあるんだが…」と、言う。
改まって言うので何かと思ったら、
「ダーティ・ハリーがやりたい」
というのだ。
1988年に公開された『ダーティ・ハリー5』の売りは、
シスコの坂道での派手なカー・チェイスだった。
その中でも圧巻だったのが、
くねくねしたランバートストリートでのカー・アクションだ。
「そこに行ってみようぜ!」と言う佐瀬の要望に、
「あのね、遊びで来たんじゃないんだから」
なんて言うはずもない。
こんなことは僕にしか言えなかったのだろう。
冨士夫や青ちゃんには遠慮があるし、
カズには馬鹿にされるかも知れない。
その夜のうちにシスコの街なかへと出ばった。

コーディネイターに聞いた場所まで行くと、
思ったより小じんまりとした風景だった。
小高い丘のようなところにきれいな植え込みが並ぶ。
住宅地の中なのだが、
そのくねくねと何度もS字にカーブする道を、
ダーティ・ハリーはカー・チェイスしたのだ。
うちのダーティ・ハリーは渡辺大二。
当時、高校を卒業したばかりのローディである。
映画本編ではものすごいスピードで駆け下り
飛んだり跳ねたりするのだが、
国際免許はもちろん、国内免許でさえ取ったばかりの
ダーティ・大二には、無理な相談だった。
「もっとスピード出せねぇのか!?」
と言う僕らの罵声に、
“来るんじゃなかった”と思ったにちがいない !?
旅はいつだって楽しい思い出に満ちている。

カズはその時一緒にいたのだったか?
残念なことに覚えていない。
ただ、僕が現地入りしたことで、
やたらとカズと佐瀬が寄ってきたような気がする。
それまでは、東芝EMIのM氏が付いていたのだが、
僕と交代して帰国したのだ。
つまり、仕切りもコチラに移行したってワケだ。
「トシ、行ってみたい店があるんだが…」
っと、また佐瀬。
どんだけ我慢してたんだコイツ(笑)。

その時、僕らはシスコのサウサリートという地域に居た。
有名なリゾート地で湖がある。
こちらでいえば山中湖みたいな感じだろうか!?
湖の淵にはたくさんの船が停泊しているのだが、
それは水上住居だったり、レストランだったりするのだ。
その中の一画に、いかにも高級そうな店が並んでいた。
「あの店で喰おうぜ!」
佐瀬が指したのは、きらびやかな中華料理店。
「おぉっ…いかにもだな…」
と、カズと佐瀬と3人で入った。
冨士夫と青ちゃんとは別行動である。
アッチは“もと村八分の兄さん組”、
コッチは“もとFOOLSの遠慮の固まり組”といったところだ!?
テーブルに着くなり、いきなりメニューを開いて
「Oh〜!Expensive !?」とアメリカンな佐瀬。
嬉々とした笑顔で、その中で一番高そうな、
フカヒレやら何やらを幾つも注文してひと言。

「これが、ずっとやりたかったんだよ!」…だって。

佐瀬にはそんなヤンチャ!? なところがあったのだ。
いや、ヤンチャというか、何というか、
とにかくカタチから入りたがる。
そこを理解するしかない。
ダーティ・ハリーになって、高級中華を喰って、
次はいったい何なのか?
何を言われても驚かない気構えが大切なのだ。
そう…、遠慮は爆発して解消するしかないのだから。

なんて、『MIXIN’LOVE』の思い出はつきない。
詳しくはまたの機会に伝えるとして、
カズの話に戻そうと思う。

カズが音楽的には、冨士夫のサポートをしていたという事実。
時にはプロデスュース的な役割も果たしていた。
そのカズが「出したい!」という映像が、
『TEARDROPS LIVE 1990 ’ BAUS THEATER’』。
まさに『TEARDROPS』の分岐点にあたるシーンである。
さらに、その日を収録したDVD+CDに加えて、
1990年の6月1日に行われた
『アルバム「MIXIN’ LOVE」発売記念』
の LIVE/CDも加えることにした。
前述した佐瀬のエピソードでもわかるように、
「MIXIN’ LOVE」は、愉しかった空気感が
最も溢れていたシーンだったからである。

会場となった『バウスシアター』があったのは、
吉祥寺のメイン・ショッピング・ストリート
とでもいうべきサンロードのドン付きだ。
洋画の大作に限らず、
インディペンデント作品まで幅広く上映している他、
ライブや寄席などの催しも行っていた。
中でも特徴的だったのが爆音上映。
ライヴで使用するサウンド・システムを用いて
映画を上映するという試みは、
斬新で神経を覚醒させるのに
十分なインパクトがあったとされる。
残念なことに、
2014年6月10日に惜しまれながら閉館、
30年の歴史に幕を下ろしている。

振り返ってみれば、
1990年は『TEARDROPS』が
最も充実していた年だったのかも知れない。
いみじくも冨士夫は言っている。

「どんなに最高で最良のときを重ね合わせても、
ステージ上での一瞬の素晴らしさにはかなわない」
……と。

(1990年/吉祥寺)

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