042『東芝EMI』/瞬間移動できたら
“ 瞬間移動できたらどんなにいいだろう ”
なんて、誰でも一度は思ったことがあるだろう。
朝一から、くっだらない満員電車に乗るハメになったとき。
行きつけの飲み屋で秘密のデートをしていると、
ドアから公然の彼女が入って来たとき。
グルグルの浮かれ調子で繁華街を歩いていたら、
前から来る警察官と何故かバッチリと目が合ったとき。
春風の心地良さに、事務所の窓辺にもたれ、
メンソールでも吹かしながら、
道に舞って行く煙の行方を
鼻歌まじりに目で追ってみたら、
そこに冨士夫が立っていたとき。
「ずいぶんと、気分が良さそうですな」
なんて言い回しで、奴は鼻息あらくコチラを睨む。
そして、事務所よこの階段を上がる音と共に迫って来るのだ。
“ 来るぞ、来るぞ ”
想像は妄想になり、
現実が儚い夢であればと思った、その時、
“ 瞬間移動できたらどんなにいいだろう ”
なんて、思ってしまうのだ。
東芝EMIからのファースト・シングルは、
『瞬間移動できたら』に決定した。
冨士夫自身は、きっと、あえてメジャーを
意識してこの曲を作ったのだろう。
歌詞が明らかにいつもと違っていた。
“ 瞬間移動できたらいいな ”
なんて? なんだか……、
おそろしく、いつもと違っていた。
しかし、EMIのMディレクターは、
「これでいきましょう!」
と、パチンと指を鳴らし、調子が良かった。
彼は当時20代の前半だっただろうか?
若かった彼もこの曲が良いと言うのだ。
「そーゆーもんなんだな」
メジャーのセンスというものが
よくわからない僕らは、
新たに船出した大海原の中で、
とにかく沖に出ようと、
それだけを考えていたのだ。
1989年4月4日の夜9時半、
『瞬間移動できたら』のPV撮影は、
横浜にある『黒澤フィルムスタジオ』
(設立者は映画監督の黒澤明)で行われた。
プロデュース・撮影共に、
井出情児(※1)と藤枝静樹(※2)両氏の名コンビ。
この二人、冨士夫が人生の路地を曲がる度に、
『そこに居合わせてフィルムに収める』名人芸を持っていた。
だから、この時もそうだった。
『TEARDROPS』の第一弾を撮れるのは、
情児さんたちしかいない。
企画からイメージまで、総てをお任せしたのである。
ところが、そんな意気込みとは逆に、
それどころじゃない事態がコチラには起きていた。
実は、冨士夫が腹痛で苦しんでいたのだ。
このころから冨士夫の膵臓は悲鳴をあげ始めた。
忙しかったので、騙しだましの入退院を繰り返し、
漢方のチカラも借りて乗り切ったりしていた。
だから、この日もそうだった。
撮影本番の寸前まで、
冨士夫は車の中で横になっている。
『瞬間移動できたら』のPVを見る限り、
そんな様子はみじんもないが、
当時は、気丈に振る舞って仕事をこなしてくれる当人に、
心から感謝したものである。
深夜に及んだ撮影からの帰り道、
車のリヤシートに横になって休む冨士夫の姿を見て、
さすがに明日の仕事は延ばそうと思った。
翌朝いちばんで連絡をして、
明後日にしてもらったのを憶えている。
それは『ROCKIN’ON JAPAN』のフォト/セッションだった。
午後2時から6時までである。
その前に『パチパチ・ロックンロール』のインタビューが
午前11時〜午後1時まで入っている。
その翌日にあたる3日後には大阪まで出向き、
FM番組4本に出演してから、一泊してトンボ帰り。
昼から宝島のインタビューを受け、
『R&Rニューズメーカー』と『シンプジャーナル』
『アリーナ37』の撮影とインタビューを受けるとある。
その翌日、金曜と土曜は2日続きで『クロコダイル』のライブ。
翌、日曜は、千葉の本八幡『ルート14』でのステージだ。
その合間に冨士夫は、伊藤銀次さん主催の
『ブリティッシュ・カバーナイト』
のリハーサルに付き合っていた。
そんなことできるのか?
と思うほどの詰め込み方。
手帳を見ると、その翌週もその波は続いていく。
当時は音楽雑誌だけで数十誌あった。
それに加えて情報誌と専門誌。
FM/AMラジオにコンサート。
各レコード会社の宣伝部は腕の見せどころなのだ。
東京・大阪を中心にキャンペーンを張る。
CD発売広告を載せた雑誌には、
必ずインタビューや撮影が入る。
冨士夫だけなのか、青ちゃんと二人なのか、
メンバー全員なのかでコチラも動きが違ってくる。
インタビューの場合は、たいがい冨士夫ひとり、
メンバー全員の場合は撮影主体が多い。
また、FMからのオファーは何故か大阪が多かった。
清志郎や中島らもさんが番組を持っていたこともあるけれど、
キャンペーンやライヴの度に何かしら出演していたのだ。
こんな言いかた変かも知れないけれど、
それにしても、当時は地方が元気だった。
東京に出て来ないで、
その地域で独自のパワーを
発揮していたのだと思う。
僕らは、隔月で関西に行った。
大阪・神戸・京都、そして名古屋が定番。
けっこう、関西のノリが性に合ったのだ。
いつも楽しみだった気がする。
東京周辺は、大宮・横浜・川崎・市川・本八幡がレギュラー。
季節ごとに仙台やら九州やら札幌やらをチョイスして、
可能な限り、呼ばれるところには行くことにしていた。
だから、そのうち、本気で
『瞬間移動できたら』を
演奏するようになってくる。
忙し過ぎるのだ。
“テレパシックに通じ合えたらどんなにいいだろう”って、
ヘトヘトになった頭と身体で想ったりする。
それは、ネットが張りめぐらされた
過剰な情報に不感症気味の現代社会には、
決して体験できない『想い』。
この先に何があるかわからないという、
想像力がもたらす感性なのかも知れない。
1989年4月、TEARDROPSの
東芝EMIからのファースト・シングル
『瞬間移動できたら』が発売された。
前回のシングルが『気をつけろ』だから、
まさに『瞬間移動』したような内容の変わりよう。
そこには、意外なほどにストイックな冨士夫がいる。
「やると言ったら、どんなに忙しくてもやってやる」
このころの冨士夫は、そう言いきっていた。
「ヘンなもん、やるんじゃねぇぞ!」
と、メンバーに檄を飛ばす。
言われたみんなは、目が点になっていた。
“なるほど、こーゆー冨士夫もいるのか”
知り合って10年足らず。
新たなる人格を発見した想いだった。
(1989年4月)
(※1)井出情児/ 冨士夫にとっては、村八分時代からのファインダー越しの友人。風月堂前で撮った、村八分のショットはあまりにも有名である。ロックフィルムの第一人者として現在も活躍する映像作家。井出組山中湖jyoji.ubusuna.com/
(※2)藤枝静樹/ 冨士夫にとっては、地元・阿佐ヶ谷の同級生。しかし、交流を持ったのは村八分になってからである。早くから16ミリフィルムで撮影をしており、世に唯一存在する村八分の映像は彼のものによる。一生を通して、冨士夫のアドバイザー兼友人であり続け、様々なドラマが未だに頭の中で渦巻いている貴重なる人だ。