044『スライ&ロビー/久保田麻琴』谷間のうた/忌野清志郎

みんなが知っている
『春の小川』という童謡・唱歌。
実は、この歌の風景は、
渋谷駅東口の北側を流れる渋谷川と、
代々木八幡周辺を流れる宇田川が、
そのモデルになっているという話だ。
つまり、100年余り前の『豊多摩郡(渋谷)』が
歌の舞台なのである。

ちょっと、その『渋谷川』に沿って、
渋谷駅から明治通りを渡り、
宮益坂下から宮下公園を抜けて
原宿方面に向かってみよう。
すると、皆さん、よくご存知の『クロコダイル』の裏手、
小さな児童公園のある遊歩道に出る。
通称『キャットストリート』と呼ばれるこの遊歩道、
ず〜っと、原宿まで続いて行くのだが、
実は、ここの下に『渋谷川』が流れている。

「誰だい!ここにフタをしたのは?」
と怒っちゃう輩もいるだろう。
フタさえ取れば、『春の小川』が現れるのだ。
で? それがどうしたって?
そう、そのフタをした『春の小川』、
いわゆる『キャットストリート』沿いに
『Galaxy(ギャラクシー)』という多目的スペースがある。
そこで、来る8月10日〜12日の3日間
『山口冨士夫/バースディ・パーティ』が開かれる。

実に、それが言いたかったのだ。
そのために『春の小川』からつなげるのは
ちょっと、まわりくどかったかも……ね。

イベント自体の詳細は、現在つめているところ。
先日、そのための下見に行ってきた。
なかなか楽しめそうなスペースなので
いずれにしても、手ぐすね引いて
待っていて欲しいと思うのだ。

8月なので『真夏の小川』になってしまうのだが……。

ということで、本題に入ろうと思う。

『Galaxy(ギャラクシー)』の下見の後に、
『HMV』に行こうと思って歩いていたら、
『タワーレコード』の斜め前あたりで
突然に、昔の情景がフラッシュバックした。

この日とまったく同じように
爽やかに晴れた春の午後、
『タワーレコード』の
斜め前にあったオープンカフェで、
コチラに手を振る麻琴さん
(久保田麻琴)の幻影を見たのだ。

その幻影が居た実際のシーンは、
1989年の5月10日。
ちょうど27年前の梅雨入り間近のことである。
僕は助手席に冨士夫を乗せてその場所を通っていた。
「あそこだよ、ほらっ、麻琴っチャンが手を上げてる」
目の良い冨士夫は、何でも瞬時に見つける。

少し先のパーキングに車を停めて
麻琴さんのいるオープンカフェに行った。
昨日、連絡をもらって、今日会うという
まさに急を要する用事だったのである。

麻琴さんは薄いサングラスの奥で、
目だけは笑っていない独特な微笑みで迎えてくれた。
「やぁ、久し振り、元気だった?」
そう言うと挨拶もそこそこに、
さっそくという感じで冨士夫に話し始めた。

「スライ&ロビーが来日するんだけどさ…」
というくだりから始まった話は、延々と18分。
早口に圧縮してあるので、
解凍するのに多少時間がかかる。
要約すると、ライヴのために来日するのだが、
空き日を有効活用したいので
「何かない?」というわけだ。

そこで、コチラも思案する。
「何かあったかなぁ〜」てな感じだ。
「そういえば、清志郎から届いた詞があるな」
と、ぽろっと言う冨士夫。
少し前に、冨士夫ン家のファックスから、
いたずらっぽく流れ出てきた一枚の『詞』。
タイトルに『谷間のうた〜不思議な泉』とあった。
突然の清志郎からの贈り物だったのだ。
「コレに曲をつけろってことだな」
直後は、冨士夫も腕まくり気味だったのだが、
詞の内容が、あまりにも冨士夫の
テリトリーを越えていたので、
「コレにどうやって曲をつければいいんだよ〜」
ってことになっていたのである。

「それでいこう!」
麻琴さんは、薄いサングラスの奥から、
キラリと『即決光線』を放った。
コレを放たれたら終いである。
どんな話も前に進めなくてはならない。

翌日、僕はEMIにプレゼンした。
『清志郎の詞に曲をつけて
 スライ&ロビーとカップリングする』って。

「それでいきましょう!」
EMIに悩む理由はどこにもない。
あるとしたら、『TEARDROPS』は
シングルを出したばかりだというだけだ。
セカンド・シングルは意外と早くやってきた。
ただ、それだけのことである。

5月29日、麻布十番にある『つづきスタジオ』で
レコーディングのリハーサルにのぞんだ。
スライ&ロビーとの初顔合わせでもある。
夕方、冨士夫を迎えに行き、
みんなで一緒にワイワイと向かったのを憶えている。
「どんな感じの曲になった?」
スライ&ロビーに会うのが楽しみだったので、
けっこう浮かれ気分の中で冨士夫に聞いてみた。
メンバーも興味津々といったところか、
騒ぎが収まり、シンとした空気が一瞬を包む。

「………きてねぇ」

蚊の鳴くような声で冨士夫が呟いた。
「エッ?どうしたの、調子わるい?」
また、腹具合がワルくなったのか?

「ちがぅよ!曲ができてねぇんだよ!」

今度は、夕暮れの表参道をつんざくようなデカイ声だった。
「できてねぇの?!」
けっこう全員でハモッた。
それだけビックリしたのである。
車はすでに青山通りに入っていた。
目指す麻布十番まで16分あまり。
その間に口ずさみながら
曲を完成させられるわけはない。

「るせーな、なんとかなるだろ?!」

冨士夫はすこぶるご機嫌斜めだ。
はしゃぎ気分の車内は、一転して寡黙な個室と化した。
そのなかで、青ちゃんだけが
「大丈夫だよ、俺がいるから」と、
意味を持たない言葉を放った。
青ちゃんはそういうところがある。
青ちゃんなりの(笑えない)ジョークなのだ。
青ちゃんなりに場を和ませようと思っている。
そして、とりあえず胸を張ってしまうのだ。
そんなやり取りに揺れたまま、
間もなく『つづきスタジオ』に到着した。

『つづきスタジオ』というのは、
リハーサル・スタジオである。
比較的広くて通し鏡があり、
コンサートなどのゲネプロによく使われている。
僕らが到着した時には、すでにセッティングができていた。
スライ&ロビー、そして、
キーボードにタイロン・ダウニー(ウェイラーズ)
がすでに陣取って音出しをしていた。

プロデューサーの久保田麻琴さんが冨士夫を見るなり、
素早くジャマイカチームに紹介する。
「こーゆーときの挨拶は、ヤーマーンだっけか?」
照れながら相手チームの笑いを誘う冨士夫。

「スラロビにレゲェじゃなく、
 ロックを演らせちゃおうと思うんだ」
車を降りるときには、
曲ができていない気分をも乗り越えて、
すっかり居直って勇んでいた冨士夫が
スタジオに入ったとたんに、さっそくギターを鳴らした。
完全に8ビートである。
それに、スラロビも合わせた。
そこに冨士夫が歌詞をのせる。
それを、何度かやってみる。
何だかしっくりこない。
キーボードのタイロン・ダウニーがアレンジをする。
テンポが少し遅くなって、スカのようなビートになった。
そこに再び冨士夫が歌詞をのせてみた。
こんな感じを何度か繰り返すうちに
あっという間に『谷間のうた』ができつつあった。

「『スライ&ロビー』はタクシーって呼ばれているんだ」
っと久保田麻琴さんが言う。
何のことかと思ったら、仕事の在り方だった。
距離によって料金がかさんでいくタクシーのように、
『スライ&ロビー』も音出しの回数が
そのままギャランティに反映するのだというのだった。

リハの翌日、5月30〜31日の2日間が
『スライ&ロビー』のレコーディングにあてられた。
場所は、新宿のテイクワン・スタジオ。
まさに少ないテイクで終えたい僕らには、
うってつけのスタジオ名である。

「タイロンがいて助かったよ」
っと、後日、冨士夫が言ってるように、
タイロン・ダウニーが全体をまとめてくれた。
ほとんど即興の冨士夫と『スライ&ロビー』に
変化と調和をもたらしてくれたのだ。
プロデューサーの久保田麻琴さんの巧みさもあるが、
コミュニケートが上手くいった良い例だと思う。
30日に、冨士夫の『谷間のうた』、
31日に、青ちゃんの『フラフラ』をレコーディングした。
可笑しかったのは清志郎。
30日の深夜近くに息せき切って駆けつけてくれたのだが、
すでに『スライ&ロビー』は帰った後だった。
(スラロビは、OKテイクが出るとすぐに帰ってしまう)
「なんだよぅ」って、冗談でふてくされながらも、
笑顔でコーラスを入れてくれていたシーンが忘れられない。
それでなのか、31日の『フラフラ』レコーディングには、
早くからチャボさん(中井戸麗市)がスタジオ入りした。
めでたく『スライ&ロビー』と共に、
『フラフラ』R & R にギター華を奏でたのである。

『スライ&ロビー』は、リハも含めて
ほんとうに3日間でレコーディングを完了した。
さすが、グローバルなタクシーである。
冨士夫がなかなか行き着けなかった
『不思議な泉』までの道を
独特なドライヴ感で、ノせて行ってくれたのだ。

1989年の夏、
『谷間のうた〜不思議な泉』は発売された。
東芝EMIからの2枚目のシングルである。
作詞は『忌野清志郎』、
『スライ&ロビー』『タイロン・ダウニー』との、
いきなりのカップリングでもあった。
加えて、コーラスに『忌野清志郎』『サンディ』、
『フラフラ』には 『中井戸麗市』も参加していた。
すべては『久保田麻琴』の“即決光線”が生んだ、
『TEARDROPS』初の話題曲……、
になる……はずだった。

発売前に、ジャケットデザインを
事務所で制作していた。
赤い花をインクでにじませながら吹いたら、
ツツ〜ッと、インクが流れた。
「俺が谷間を描くよ」
そう言って、冨士夫が紙にでっかく
“おっぱい山”みたいな線を描いた。
その“赤い花”と“おっぱい山”をつなげて
“『谷間のうた』の出来上がり〜”って、
調子づいて笑っていたのを思い出す。

そう、あのときは、思ってもみなかったんだ。

あのあと、『谷間のうた』が、
違う方向で話題になっていく……なんて。

(1989年春〜夏)

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