048『村八分/チャー坊とテッちゃん』Funny Day
年が明け、多忙をきわめる1990年が始まった。
三が日が過ぎた4日からスタジオに入った。
天から降りて来る新曲を呼び込む儀式である。
グループ4人が祈るようにそれぞれの楽器を鳴らした。
時おり首長である冨士夫が奇異なうなり声をあげる。
それに同調するのはバランスをつかさどる青木だ。
占い師もかねるベースのカズが、
2弦を親指で♪ヴィ〜ンって鳴らすと、
ファンキーな口調で空を指差して言った。
「大丈夫だよ、グルーヴがきてる」
ただ、いちばん奥でデカイ図体をしている佐瀬だけが、
なかなか儀式の空気になじまない。
そわそわしているかと思ったら、
儀式の輪を抜けてこちらに来て小声で囁いた。
「トシ、スケジュールを延ばしたほうがいいんじゃねぇか?
オレたちの神は渋滞にハマってる気がする…」
そこまで言いかけたとき、
うしろから首長の怒鳴り声が木霊した。
「なにやってんだ!ビッグビート!カモーン!」
そう、佐瀬は少し前から自らを“ビッグビート”と呼んでいた。
だから、“佐瀬 ビッグビート浩平” なのだ。
少々長いが仕方ない。
クリスチャンネームのようなつもりで呼ぶことにしよう。
これで、繊細な佐瀬の心が少しでもデカくなるなら、
グループの平和にも反映する。
さて、約2日間の儀式のかいあって、
空がにわかによどみ始めた。
「今だ!降りて来るぞ!神殿に向かおう!」
新年早々、空いてる神殿はEMIのテラ神殿しかなかった。
芝浦までぶっ飛ばし、あわてて祈りを始めた。
「早くしないと、せっかくのおしめりが乾いちまう」
1月6日から8日までの3日間で、
グループは2曲の祈りを収めた。
『風にとけて』と『いいユメ見てね』である。
特に『風にとけて』は、これからのグループの行く末を暗示していた。
♪ 同じ船に乗り込んだ〜 何処に行くかは 知らな〜い ♪
“ 知らない ”のだ、 “ 同じ船に乗り込んだ ”のに。
初めて海外に出る首長の緊張感が伝わる歌の出だしである。
「あらっ? 冨士夫、海外初めてだっけか?」
ビッグビートが余計なコトを言う。
「ほ〜だよ、わり〜かよ」
わかりやすいほどに、首長の口調がヘコんでいる。
この時点で、14日の渡航出発までに一週間を切っていた。
あわてて、グループは再び輪になって儀式を始めた。
アルバム用の新曲を神に願うのだ。
今度は神主も覗き込みに来ている。
薄いサングラスの奥で、心配そうに微笑んでいる麻琴神主。
しかし、天からはいっこうに何も降りてこない。
「収音、いく? のばす?」
いとも簡単にそう言うと、麻琴神主がコチラを振り向く。
それに答えるのは、なんといっても神社の責任者、
EMIの若きホープ、M宮司である。
「いきます!」
M宮司は若いだけに勢いがいい。
危ういバジェット伝票を握りしめながらも、
アメリカンのように指を鳴らした。
そして、鳴らした指をそのままコチラに向けたのだ。
「エッ? オレ? つ〜か、僕? つ〜か、オイラ」
……なのだ。
責任はぐるっと回ってこの身に舞い降りた。
かといって、オラはど〜することもできない。
何か余計なことを言って、
儀式のさまたげになっても困る。
ひたすらにうなる首長を横目に、
この場を一時的に去ることにした。
オイラ、いやワタシにはこのとき、
儀式と平行しておこなっている作業があったのだ。
首長が唱えた『それがどうした!』
という教典をまとめる聖なる作業だ。
首長の大切なお言葉は、ほぼテキスト化されているのだが、
同じ志を持った別宗派の聖人たちに
会わなければならない。
会って問うのである。
この世にとって首長がいかに偉大かを。
そのためには聖なる京都にまで
行かなければならないのだった。
そんな質問状の準備をしている間に
「あっ!」と、いう間に時は過ぎ、
僕らは成田バビロン空港にいた。
「ヤマ〜ン」
「おおっ、ヤマ〜ン!」
気の早いグループはすでにジャマイカかぶれしている。
しかし、首長だけはまだ緊張していた。
何かをまだぶつぶつと唱えているではないか。
そして、気をとり直したかのようにこうべを上げ、
「オレらが行くのはシスコかぃ?」
と当たり前なクエスチョンをする。
そうです、と答えると、そうか、シスコかとつぶやき、
そのやりとりを何回もリフレインしたまま
機上の人になっていった。
今回の先発隊はグループ4人と、
グループ隊長補佐のエミリに
世話役の渡邊大二。
神主の久保田麻琴に、宮司のM(EMI神社)。
そして、祈りを収める箱を調節する、
寺田ジン霊媒師が同行することになった。
オイラと、
「できれば参加を辞退したい」とだだをこねている、
乗り物ノイローゼの笛吹きチカシ(高木チカシ)は
2週間後に現地入りする予定である。
それはそうとオイラは、
1月16日の午後5時きっかりに、
京都の四条河原町に出向いた。
もとはウチの首長とグループを共にしていた
カリスマ祈祷師のチャー坊と会うのだ。
チャー坊の安定剤、テッちゃんも同席してくれるという。
二人は我が首長の『それがどうした!』教典に
賛美の言葉を捧げてくれるというのだ。
ほどなくして右前方からチャー坊が
しゃなりしゃなり歩いて来るのが見える。
そりゃあ、雅(みやび)といえば、そう見えなくもない。
かと言って、たんなる危ないヤツのようにも映る。
だけど、決定的にそこらの輩とは違う感じだ。
そう、“華”があるのだ。
存在そのものが非常識なほどに。
「お久し振りです」
まずはそう挨拶をした。
「ああ」と言ったか、
「はい」と言ったか覚えていないが、
小さな消え入りそうな声で
笑顔を返してくれたのが印象にある。
すぐさまテッちゃんが機転を利かせて、
「ほなら、行きまひょか」
と、賛美の言葉を収録する場に向かった。
茶店でのチャー坊は雄弁だった。
小さくおとなしい声ではあったが、
『村八分』のことを話してくれた。
その内容のほとんどが、
冨士夫から聞かされていた話と一緒だったのには驚かされた。
ほんとうに四六時中一緒に居たのだ。
ひとつ部屋のなかでヘビィにトんでる世界が想い浮かぶ。
チャー坊は語った……。
冨士夫だけがグループのなかでプロだったこと。
ドラッグ浸けだった日常の日々。
五七五にこだわった詞の世界。
そして、金を回すのに苦労したエピソードと、
チャー坊の“おかあちゃん”のことを
冨士夫も“おかあちゃん”と呼んだこと……。
けっこう、この笑い話が笑えなかったようだ。
このことがきっかけで冨士夫はチャー坊の家を出る。
そして、それはグループの分裂へとつながっていく……。
話の終わりにチャー坊は、
冨士夫に伝えてくれと、こう言った。
「フジオはオレの人生のなかでいちばんカワイイ人や。
無邪気で純粋でいちばんカワイイ人や」……と。
茶店を後にして、テッちゃんのあとをついて歩く。
気がつくとチャー坊は僕の横を歩いている。
目が合うとなんともいえない微笑みをつくる。
そうしながらもコチラを観察している風でもあるのだ。
「これだな」と、思った。
何十万回も冨士夫から聞いていたニュアンスが理解できた。
チャー坊は基本的に“人たらし”なのだ。
そこら辺が、なんとも魅力的なのだろう。
東京に戻り、『それがどうした!』教典をまとめていた。
まだまだ賛美の言葉を収めなければならない。
リストアップしてブッキングしていたところに、
オーバーシーコールがきた。
サンフランシスコからであった。
「まだ何にも録れてないんだけど」
と、EMIのM宮司が言う。
収録に入って、もう10日にもなる。
それなのに1曲も録れてないとは…。
やはり儀式が足りなかったのだ。
コチラとアチラでは祈る神も違うから、
降りてくるにも戸惑っているのだろう。
なんて、つまらん冗談にでも
くるまってなきゃやってらんない。
あの有名な『プラント・スタジオ』を
10日間も無駄にしている奴ら。
なんとも大物ではないか、
そう言いながら笑ってしまうことにした。
しかし、笑ってばかりはいられない。
4日後には僕も合流するのである。
現実に戻り、『それがどうした!』いや、
『SO WHAT』の締め切りを照らし合わせた。
とてもじゃないが間に合いそうにもないのだ。
この世の終わりがすぐそこまで来ているのを感じる。
僕は、いや、オイラは、あわてて空を見上げた。
見事なまでに晴れていた。
一点の曇りもない。
神とペンを用意し、儀式を始めることとした。
受話器を取り、『宝の島』に向かって予知したのだ。
日照りは、あとひと月は続くだろうということを……。
(1990年1月)