049『サンフランシスコ/果てしなきMixin Love・1』 世界で一番忙しい街
時は1990年1月29日マンデー。
よもヤバ話の流れでは、
僕自身がサンフランシスコに飛ぶのだが、
どーも、飛ぶ気がしない。
あのときは、先に飛んで行ったTEARDROPSが
勇んでプラント・スタジオに入ったものの、
2週間たっても1曲も録れていないという
悲しいお知らせがあったばかりだった。
「おいおい、いったい幾らかかってると思ってるんだよ」
って、ブツブツ言いながら計算してみた。
スタジオ代が1日10万だと言ってた気がする、
それ掛ける14(日)で、140万か……。
「うん? 140万 ? たいしたことないじゃない」
(……という時代である)
当時は東芝EMIのスタジオを使うと
1時間5万円かかった。
ゆえに、1日10時間レコーディングすると50万である。
140万なんて、バブルで割ればたった3日だ。
十分に取り返しがつくぞ!
そんな戯言をつぶやきながら、
バッグに荷物を詰めていた。
飛びたくはないが、飛ばねばならないのである。
あぁ、なんだか、やたらに忙しい。
それに加えて、
『SO WHAT』の入稿も重なっていた。
なんとなく国外逃亡をするような、
そんな飛べない気分なのだ。
とにかく空港に向かおう、
そう思って家を出ようとしたとき、
それを呼び止めるように電話が鳴った。
「○×▲出版ですが〜」
『SO WHAT』とは別の編集部であった。
コチラの締め切りも間もなくくるのだ。
下手な言い訳もなんだからって、
「残りはジャマイカからファックスします」
と、言い伝えたのを覚えている。
「エッ!? どういう意味ですか?」
と、とまどった声がする受話器を、
そっと置いて逃げるように外に飛び出した。
携帯などない時代である。
こーゆー時には、そのほうが便利だ。
飛んでしまえば、誰の声も届くことはない。
オイラは自由だ、バンザイ!
なんて、叫んじゃったりしながら空港に向かった。
しかし、まだまだこのままじゃ飛べない。
もうひとつ、大切な用事が残っていたのだ。
それは資金繰りであった。
実際、TEARDROPSの活動を維持するには、
月額6ケタ2本あっても足りやしない。
ゼニ、ゼニ、ゼニって、
そいつに振り回されるつもりもないのだが、
人件費、機材費、消耗費、等々…、
とにかくなんだかんだとかかるのだ。
誰だって、やってみりゃわかる。
ストレス溜まって、イビツに歪むのだ。
とくに、バブル時のロックバンドなんかやるもんじゃない。
どっかで一発、ヒットを飛ばしちまえば、
全てが笑い話になっちまうのだろうが、
そうでない限り、うかつには笑えない。
もしかすると、永遠に笑えないのかも知れないのである。
な〜んてね、それだけ愉しいことも満載なんだけどさ。
まぁ、詳しくはそのうち何かに書くとして、
ここでは、とにかく大変なんだよ、
ということだけにしておこう。
そんなもんだから、
急いで公衆電話から東芝EMIのハッシーに連絡した。
「これから伺います!」
「はい!待ってますよ」
と言う色良い返事である。
ボストンバッグを抱えながら、
EMI経由で飛ぶことにした。
どうやら頼み事が通ったらしい。
「これでなんとか飛べそうだぞ……」
そのころのハッシーはEMIの制作統括本部長から、
法務部長へと出世していた。
その、たいへんありがたい個室に出向いたワタクシは、
真っ直ぐにハッシーと対面した。
ハッシーは、数日前に渡してあった
バンドの事業計画書を手にして、
「これが掛け値無し(はったり無し)
の事業計画書なんだね、了解しました」
と言って、覚え書きをよこしたのだ。
そこに判を押し、契約成立である。
「午後に振り込んでおきますからね。これから成田かぃ?」
「そうです、お陰様で飛ぶことができます」
それにしても、忙しい、やたら忙しいのだ。
なんだかんだと、いつもぎりぎりである。
よし、こうなったら、思いっきりの笑顔で、
シスコのスタジオに着くなり、
メンバーに給料を渡してやろう。
そうすりゃ、突然に神でも降りて来て、
とてつもないヒット曲が生まれるかも知れない。
なんてね、一人で高笑いしているころには成田に到着した。
「絶対に行かへんからな!」
と、頑固なまでに「行かへん」宣言をしていた、
乗り物ノイローゼの高木チカシと
空港ロビーで落ち合い、いざ、
「さあ、飛ぶぞ〜!」
そして、めでたくサンフランシスコ行きの機上の人とあいなった。
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しかし、機内のシートに座ったとたんから、
チカシは一言も発しなくなった。
「おい、チカシ、冗談なのか?
このままシスコまで黙ってるつもり?」
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チカシは極度の乗り物嫌いなのだ。
そうして、サンフランシスコまで飛んだのだが、
……現地到着まで何の記憶もない。
たぶん、 チカシにつられて
コチラも寝てしまったのだろう。
シスコまで、あっという間だった気がする、
それはまるで、瞬間移動したみたいだった。
サンフランシスコ国際空港では、
コーディネイターのポールが待ち構えていた。
彼の車で、スタジオのあるサウサリートに向かう。
サウサリートとは、シスコ市内から
ゴールデンゲートブリッジを渡った
たもとにある小さな街だ。
「遠路はるばるお疲れさま、
これでも飲んでゆっくりしてください」
ポールが一粒の白い錠剤をくれた。
何の気負いもなくそれを飲み込み、
ゆっくりと車外の景色を眺めていた。
「Tokyoは忙しいんでしょう?」
ポールがルームミラー越しに聞いてくる。
「そうね、無駄な競争が多過ぎるかな…」
そう答えているうちに、
なんだかフワッ!とした気分になってきた。
ゴールデンゲートブリッジにさしかかり、
海の彼方にアルカトラズ島が見えてくる…。
この忙しかった数日間が
走馬灯のように脳裏を流れた。
ついさっきまで練馬に居たように思える……。
ボストンバッグを抱えて走り、EMIで判を押して……。
……次の瞬間、『ここは何処だ?!』
っと、思ったところに、
「右に見えるのがアルカトラズ島刑務所です」
と言うポールの声がした。
とたんに足下から、“ ボァッ!” と、
熱気が這い上がって、
一瞬のうちにあたまの先までが、
言いようのない至福感に包まれた。
「あぁ、これで、やっとトぶことができた……」
そう、果てしなき、Mixin´ Loveが始まったのである。
(1990年1月)
PS. 一昨日、高円寺のスタジオでリハをしている『山口冨士夫Tribute BAND』を覗いて来た。
メンバーは、Vo/延原達治(The Privates)Gu/Pチャン(ブルースビンボーズ)Gu/吉田博(ダイナマイツ)Ba/中嶋カズ(Teardrops)Dr/安藤直美(ナオミ&チャイナタウンズ)である。
冨士夫の代わりに延ちゃん(延原達治/The Privates)が唄ってくれる。
吉田くんの『トンネル天国』も此処だけの話かも知れない。
カズのベースだって、感じられるのはこの日しかないのだ。
Pチャンがリードをとり、直美ちゃんがまとめてくれていた。
冨士夫が亡くなってからこの夏で3年目の三回忌。なのだが、8月10日のこの日は、67回目のバースディ・パーティなのである。
愉しく弾けて、想い想いの夜によもヤバ話を添えていただけたら幸いなのです。