064『遥かなるMixing Lab5/ボブ・マーリーの誕生日』DYNAMITE!
「ボブ・マーリーの家に行くよ」
久保田麻琴さんが微笑みながら言った。
2月6日はボブ・マーリーの誕生日だった。
4日に現地入りした僕らにとっては、
ジャストなタイミングだったのである。
歌詞作りに苦しんでいる冨士夫も、
ホイホイと上機嫌だ。
スタジオ終わりの日暮れ時に
みんなで行くことにした。
ボブ・マーリーの家は、
現在はミュージアムになっている。
36歳という若さで
この世を去るまでの6年間、
家族と共に過ごした家が
博物館として公開されているのである。
表門にはボブの銅像があり、
そこから入ると大きなマンゴーの木が
存在感を示していた。
それは、今も庭に残る、
ボブがお気に入りだったマンゴーの木。
「ボブ・マーリーは、よくこの木の下で
仲間たちと歌ってたそうだ」
と、ジャマイカ人のコーディネイターが
物知りげに教えてくれた。
彼は『レゲエ・サンスフラッシュ』を
主催する会社のスタッフだ。
そのおかげで色々と顔が利いたし、
意外な人とも挨拶をすることができたのである。
それは、庭から建物に入るスペースでのこと。
にこやかに談笑するジャマイカ女性に、
そのコーディネイターが挨拶をした。
「彼女がボブの奥さんです」
そう紹介されて驚いた。
とても若くてチャーミングなのだ。
「ヤーマーン」
ひとつ覚えの挨拶をすると、
首をかしげて微笑みを返してくれる。
「4番目の奥さんだけどね」
耳元でコーディネイターが
いたずらっぽく囁いた。
“ なるほど ”若いわけだ。
実際、ボブ・マーリーには、
妻のほかに6人の女性がおり、
実に11人の子供がいるという。
「ジャマイカの男にとって、
何人もの女性を面倒みることは、
そんなに珍しいことじゃないんだ」
とコーディネイターが言う。
養えるパワーと資質があればいいのだ。
実におおらかでわかりやすい。
「いやぁ、頑張りがいがあるね」
そう言うと、
とたんに冨士夫と目が合った。
女性に関して一途な冨士夫は、
苦笑いにちかい表情で、
“ 俺には関係ないな ”
とでも言いたげである。
ひとしきり家の中を廻って庭に出た。
さすがにたくさんの人が
誕生日を祝いに集まって来ている。
「ほら、あっちから来るグループを見てくれ。
彼らはジャマイカ人ではない」
コーディネイターが指す方を見ると、
数人の黒人が歩んで来た。
目つきが鋭く、勇んで見える。
少し前まで居たシスコを思い出す。
穏やかなジャマイカンの中に入ると、
そんな彼らが、
やけにとんがって見えたのだ。
僕らはしばらくマンゴーの木のある庭で、
ミニ・コンサートを楽しんだりしていた。
貧しいのかも知れないが、
ジャマイカという国は、
とても自由で自然に思えた。
肌の色がなんだっていうんだ。
人間はその地の環境に合ったルールで
生きるべきだと心から思えてくる。
成功を得た後のボブは、
この豪邸に鍵をかけることを
決してしなかったという。
仕事場でもあった住まいの空間は、
黒人、白人を分け隔てなく受け入れ、
出入りも自由だったという。
そんなことを想いながら、
庭に溢れるほどの人を眺めていると、
あまりにも有名なボブ・マーリーの
合言葉を思い出すのだ。
「ワン・ラブ・ピース。
皆で一つになって幸せになろう」
つまらない自己顕示欲からは
何も生まれてこない。
ジャマイカが僕に教えてくれたことは、
自分の足下を再確認することだったような気がする。
…………………………………………
さて、一週間という限られた期間ではあったが、
密度の濃いジャマイカ録音は終わりを告げた。
「よし、じゃ、日本にかえろーか」
……ってわけにはいかない。
まだ録音が残っていたのだ。
それも、アルバムの初っぱなにくる曲。
『ダイナマイト』である。
ジャマイカからロサンゼルスに移動した。
『IMAGE RECORDING STUDIO』で、
冨士夫の最後の歌入れを行った。
“ 下着のなかのダイナマイト
ハレツさせる場所もねえ!”
そう歌う冨士夫。
やけに気張った詞なのだ。
前作『らくガキ』のときもそうだったが、
このときの冨士夫は、
“ガキ共”に面と向かっていた。
彼らの気持ちに届くメッセージを、
アルバムの中の“ Key”にしたかったのである。
そんな試行錯誤に冨士夫は時間を費やしていた。
生涯で初めてのことだったからだ。
TUMBLINGSのときに試みた作詞は、
自由な発想でのスケッチのようなものだった。
TEARDROPSでカタチにしなければならない。
そんな想いがどこかにあったのだろうと想う。
それこそ、まるで“ ダイナマイト”のように、
ハレツ寸前だったのだ。
僕らは、チャイニーズシアターの
裏手にあるホテルに宿泊することにした。
まさにハリウッドである。
「みなさんに諸注意があります。
チャイニーズシアターの前の通りには、
プッシャーがうようよしていますが、
決して購入しないでください。
彼らはポリスと通じていることが多いので、
踏んだり蹴ったりされますよ」
アメリカでのコーディネイターであるポールが、
まるでツアーガイドにショッピング案内を
するかのごとくアナウンスした。
「買わねえよ、何言ってんだよ〜」
なぁんて、みんなでカラ笑いしたが、
一応、深く肝に命じるのである。
ホテルを出て、左に100メートルも行けば、
チャイニーズシアターのある
メインストリートに出る。
前庭にあるスターたちの手形は超有名だ。
星形に刻んであるスターたちの名前を
いちいち確かめながら歩いてしまう。
気がつくとヒッピー風の男が
コチラを見ているではないか。
“これか!”なんて思った。
コチラの風体からして、
必ず声をかけてくる自信があったので、
早々に行き過ぎることとした。
通りの正面に位置する山に、
Hollywoodの看板文字見える。
“なんか、想像してたよりチンケだなぁ”
なんて想いながら眺めていたら、
「Hollywood とは、
“ひいらぎの森”という意味なんだ」
と、後ろから声がした。
振り向くとコーディネイターのポールが
笑いながら立っていた。
寿司を食いに行こうと言うので、
カリフォルニア巻きを見参しに、
ポールと共に寿司屋に行ってみた。
ヒスパニック系の親父が握る寿司を
ちょっと複雑な心地でいただきながら、
日本のアーティストにまつわる
山ほどの“よもヤバ話”を聞いた。
その、あまりにもヤバくて面白い内容に、
思わず「そうなんだ!」と大笑い。
とてもここで書ける代物ではない。
みんながアメリカで
録りたがるわけがわかった……。
……そんな感じなのである。
ひとしきり笑い転げてホテルに戻ると、
冨士夫たちが塞いでいた。
アケミ(『じゃがたら』)の訃報が届いていたのだ。
冨士夫とアケミとは、
お互いに通じるものがあったような気がする。
事務所を起こしたタイミングも同時期で、
アケミがよく冨士夫に寄って来ていた。
「冨士夫、俺が会社の社長になっちまったよ。
冨士夫もだろ?」
どこかのイベントで一緒になった時に
アケミが冨士夫に問いかけた。
「オレは違うよ」
と、ひと言放って通り過ぎる冨士夫に、
「何でだよ!?冨士夫!何でだよ!?」
って、どこまでも追いかけて行く
アケミの後ろ姿が忘れられない。
純粋で正直で、
魅力的なアーティストだった……。
…………………………………………
1990年2月16日、
TEARDROPSの録音は終了した。
ひと月余りのドタバタ劇だったけど、
かけがえのない想いが詰まっている。
さぁ、あとは、
“下着のなかのダイナマイト”を
ハレツさせる場所を探すだけだ。
今、振り返ると、
あの頃の導火線が最高に燃えるように思えた。
それは、まるで浅い夢のように、
ゆっくりと燃えさかる瞬間だったのだ。
(1990年2月)