076『村八分(SO WHAT 2)』村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer

このブログは一応、
時系列に書いているつもりなのだが、
書き手の性格の歪みで、
ついついアチコチに飛んでしまう。

だから、読んでいるほうは
ワケがわからないようだ。
ここで、一応説明してもいいかしら?
ブログ年では、今は1990年の4月である。
TEARDROPSはMIxin Love Tourを始めたところ。
そこに、冨士夫の語り降ろし本
『SO WHAT』がめでたく入稿できたというわけだ。

なので、前回は『SO WHAT』の前半、
ダイナマイツまでを書いたのだ。
(その後、2話ほど別方向に飛んだのだが……)

そして、今回は『SO WHAT』の次の章、
『村八分』について書こうと思う。

それでは、
時は1990年1月16日。

『SO WHAT』のインタビューのために、
京都・河原町にある喫茶店で
チャー坊とテッちゃんに会っているところから、
スタートいたします。

…………………………………………

僕にとって初対面のチャー坊は、
何だか身の置き所がないような仕草の、
少し意地悪そうな感じに映った。

冨士夫にもあるのだが、
強いとか弱いとか、
優しいとかイケズだとか、
2つの対照的な個性が同居するような、
そんな感じなのだ。

エミリーには、

「冨士夫よりもずっと面倒くさいよ」

と、忠告を受けていた。

だから、少しばかり
過剰に構えていたのかも知れない。
“ 冨士夫より面倒くさい ”と言われれば、
誰だってそうなるだろう。
おそるおそる密林を進む兵士のようになる。

それを察してか、チャー坊のほうも
人を試しているかのような目をしてくる。
そして、意地悪そうに笑うのだ。
かといって子供っぽくもある。
その度にドギマギしている
コチラを伺っているのだ。
そのうちに、今度は何だか見知らぬ生き物に
接している気分になってきた。

この感じをどう表現したらいいのだろう?
昨年、お話を伺ったユカリさん
(上原ユカリ/村八分2代目ドラマー)が、
“チャー坊マジック”と言っていたが、
まさにそんな感じなのかも知れない。

対峙する空間が普通じゃなくなって、
独特な空気感を創っていく。
そこに、チャー坊がいきなりの方向から
パンチをくりだしてくる、あの感じ。

「俺がヤク(LSD)を持ってたからや。
そんで、あいつは俺をおっかけてきたんや」

話がいきなりそこから始まり、

「エッ!? 何のことですか?」と、なる。

そこから冨士夫と出会ったときの
話になっていくのだが、
チャー坊は出だしを決めていたのだろう。
インパクトのある言葉や内容を
計算していたのである。

1969年にアメリカのオルタモント州で行われた
ローリングストーンズのフリーコンサートを、
チャー坊は観に行っていて、
その帰国時に東京に立ち寄ったのだ。

「東京にもヒッピーなヤツがおるって言うから、
会いに行ってん、それが冨士夫やった」

チャー坊が冨士夫と会ったいきさつを話し始める。
オルタモントのフリーコンサートで出会った日本人に、
冨士夫のことを聞いたというストーリーなのだ。

そこから『村八分物語』のすべてが始まるのだが、
実は、僕はその前のプロローグを
少しだけ聞いているのだ。
垣間見るように話すしかないのだが、
チャー坊の『村八分物語』の最初の出会いは、
実はシゲトさん(村瀬シゲト/村八分4代目ドラマー)なのであった。

´69年当時だから
カウンターカルチャー真っ盛りの時代である。
シゲトさんは花のサンフランシスコに住んでいた。
まだ二十歳にもなっていない若僧だったのだろう。
1ドル365円時代の渡航費も半端じゃないが、
何よりもこの時代のこのタイミングに、
多感で自由な若者だったってことが、
時代がつま弾く運命だったのかも知れない。

そこにチャー坊が転がり込むのだ。
やはり、ハイティーンのひよっこだ。
ラリッた夢見がちの毎日の中で、
チャー坊が舞踏のように踊っている姿を想像する。
その独特な異様さが可笑しくて、
たまらずシゲトさんが訊いたそうだ。

「なにしてるんだい?」って。

すると、踊っていたチャー坊は真顔になって、
少し怒ったように答える。

「俺は、これからロックバンドを創るんや。
そこで凄いヴォーカリストになってやるんや」と。

この時代に誰もがほざく戯れ言だと、
そう思って一笑して終わった話が、
数年後に現実として目の前に現れる。

シゲトさんが帰国した時には、
村八分は世間に知れ渡っていた。

“ あのときの戯れ言が現実になるなんて ”

村八分を観たシゲトさんは
随分とビックリしたのだという。
写真家だった彼は、そんな不思議さを
ファインダー越しに収めていくうちに、
ついにはグループのドラマーへと
巻き込まれていくのだった。

「僕は、そのころアシュベリーにあった喫茶店で、
チャー坊のことを、しょっちゅう見かけたという人に
ついこの間会ったんですよ」

と言うのは、ユカリさんだ。
昨年、インタビューした時のよもヤバ話である。

「あのね、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーに
日本人のオバさんがやっていた喫茶店があって…。
店の名前?そんなのは忘れたけどさ(笑)。
とにかく、すごく危ない地区なのに、
その喫茶店は売上をいつも
瓶に入れて置いてあるんだって。
それなのに、一回も泥棒に
入られたことがないという名物店なんだ。
そこにチャー坊がよく来てたって、その人は言ってた」

ドンゴロス(麻で作った袋)をかぶりながら、
メキシカンみたいな風体で、
ヘヴィに飛んでいるチャー坊が想い浮かぶ。

そういえば、冨士夫もチャー坊と初めて会ったとき、
ドンゴロスをかぶっていたと言っていた。
よっぽど、その恰好が気に入っていたのだろう。

「チャー坊はずっと俺を睨みつけてる。
服の代わりにコーヒー袋被ってるんだよ、ドンゴロス。
その袋の横に穴をあけて腕を出して着てる。
髪はぼっさぼさで超長い、
眉毛剃ってて、めちゃめちゃヒッピーなジーンズ姿なんだ」

冨士夫が初めてチャー坊に会った瞬間の回想である。

ここからチャー坊が冨士夫にも
マジックをかけていく。
それまで、ひたすらに音楽漬けだった冨士夫が、
違う自分を覚醒させていくにつれて、
村八分がカタチになっていくのである。

「あの頃、日本にはロックバンドの
前例がなかったから、ほんまに苦労した。
だから、お手本を作りたかったんや」

と言うチャー坊の発想は、
自身の根底に流れている
『日本』への根強い意識だ。

「俺らは、日本語の五七五の言葉でやりたかったねん」

そこまでチャー坊が日本にこだわったのは、
チャー坊の育った環境も
強く影響しているのだろう。

8年近く前になるだろうか。
´70年代当時、村八分のマネージャーをしていた
木村さんにお会いしたことがある。
木村さんもずっと京都に住んでいて
村八分以前のチャー坊も知っていた。

「ノートにびっしりと書いた詩を
見せられたことがあるんだ」

中学生だったのか高校生だったのか、
多感な年頃のチャー坊が想い浮かぶ。
冨士夫が音楽に夢を馳せていたとき、
チャー坊もまた言葉を編んでいたのだった。

「余計なモノをとことん削ぎ落とすんだ。
極限まで削った音を作りたかったから」

北鎌倉に住んでいるとき、
冨士夫は村八分を聴きながら、
いつもそう言っていた。
その冨士夫が目指した曲作りは、
チャー坊の詞に曲をつけるだけではない。
ギターにリズムとリードのアプローチを作り、
ベースのラインを考え、
ユカリさん以降のドラマーに叩き方を伝授する。
いわば、詞以外の何もかもだったのだ。

「村八分は冨士夫だけが天才やった。
テッちゃんはギターが弾かれへんかったし、
青木もベースなんか弾かれへんし、
ドラムも何もやったことない。
俺も歌ったことがなかった。あいつだけや」

チャー坊も『SO WHAT』のインタビューの冒頭で、
バンドの成り立ちに関して、そう明かしている。

遥かなる45年以上も前、
京都に『村八分』というバンドがあった。
音楽で呼吸をしているような冨士夫と、
大きな野望を抱いて彷徨うチャー坊が、
世界のカルチャーショックのタイミングで出会い、
作り上げていったロックバンドだ。

ただ、他のバンドと違ったところは、
それが、生き方のアプローチだったというところだ。
自ら息が詰まるような空間を作り、
その存在感で世間を練り歩き、
意識して異端であることを示そうとした。

『SO WHAT』のインタビューの後半で、
口数の少なかったテッちゃんが、
哲学者のような顔をして応えている。

「生きている限り、自由はないよ。
一瞬の自由はあるけどな。
そこまでの道のりが
しんどければしんどいほど、
その一瞬は長いけどね」

それに対してチャー坊がとどめを刺した。

「村八分は世界中にいるんや。
村八分はバンドのことだけと違う。
これからも、俺の中では、
ずっと村八分が続いていくんだと思っている」

それは、チャー坊の中に存在した、
“ 永遠に彷徨い続ける心 ”なのかも知れない。

(1990年1〜4月)

PS.

■よっチャン(加藤義明)ライヴ
2017/3月18日(土)
阿佐ヶ谷LIVE BAR「Soul玉Tokyo」
18:30open 19:30start/2,200円
070-5559-4806
杉並区阿佐谷2-13-2 阿佐ヶ谷北口駅前ビル2F
Jr阿佐ヶ谷駅北口より徒歩30秒、
バスロータリーを渡ったところのビル
http://souldama.com

 

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