083『バウスシアター』/ヒッチハイク from 『TEARDROPS LIVE 1990 ‘ BAUS THEATER’ – Vintage Vault Vol.2』
吉祥寺の北口、
サンロードをますぐ行ったドン付きに
バウスシアターはあった。
そこで、1990年の6月/1、2日、
TEARDROPSのアルバム
「MIXIN’ LOVE」発売記念の
ライヴを2DAYS で行ったのだ。
渋谷ラママのブッキングで
お世話になっていた
大森さんのプランである。
彼には無理を言って、
ライヴハウス以外で演りたいという、
僕らの要望を聞いてもらっていた。
大森さんは何故か映画館が得意で、
最初のブッキングは壊す寸前の
吉祥寺にあった日活映画館。
次がバウスシアターだったのだ。
実は、朽ち果てる寸前の銭湯とか、
意外なところにある倉庫とかで
演りたかったのだが、
言うは易しである。
そんなもの成立するはずもなかった。
しかし、さすがイエローモンキーを
世に出した人だ。
積極的なアイデアを持って、
ライヴハウス以外を探してくれたのである。
そのバウスシアターのライヴだが、
客は2日間ともに満杯だった。
ってゆーより、500人くらいのキャパなら、
このときのTEARDROPSなら
ゆうにいけていた。
「ライヴハウスで200人の客が動員できれば、
渋公(渋谷公会堂)が見えるんだよ」
って、囁かれていた時代である。
バンドブームだったから、
200人が一瞬にして10倍になる。
もちろん、これは極端な例だが、
それほどにバンドサウンドが
日常に溢れていたのだ。
余計な話だが、
この時代は逆にそれまで主流だった
アイドル達が衰退していった。
TVのゴールデンタイムに放送していた
生音楽番組がなくなったのもこの頃。
(けして、タイマーズのせいではありません(笑))
代わりにケーブルTVが当たり前となり、
MTVのようなロックやポップを主体とした
プロモーションフィルムがチマタに流れていた。
気がつくと街を行き交う
普通の若いコたちみんなが
ギターケースを持っていたりする。
(そんな風に見えるほどに)
誰もが日常にバンドを感じていたのだ。
考えてみれば、
このときのバンドシーンの中で
渦巻いていた若者たちが、
当時10代後半から20代までだったとすると、
現在40代中頃から50代ということになる。
バブル景気末期の崩壊する
社会気風の中にあって、
このタイミングに若者だった人たちは、
今の日本の中でも最もロック好きな、
パンク(サウンド)世代なのではないだろうか。
「ビッグビート佐瀬さんですか?」
新宿で、そんな見知らぬ
パンクな若者に声をかけられたと、
佐瀬が目を見開いて報告してくる。
立ち寄った地元の飲み屋では、
「本物だ」
って騒がれたらしい。
そこら辺からミュージシャンの意識も
変わってくるという。
冨士夫や青ちゃんなんかは、
そんなのに慣れっこだったが、
その他全員はなんだか
この新しい状況にソワソワしていた。
ライヴの本数も多くなってくると、
楽器やアンプ関係の機材も多くなる。
ステージ上でのリスクも増えてきた。
照明やPAにもその分の経費が伴うし、
規模が大きくなってきたぶん、
人件費も風船のように膨らんでいく。
だけど、
何たってロックバンドなんだから、
いつもカッコつけなくちゃならない。
「この壁の右から左までのジャケットぜ〜んぶ下さい」
ブティックで決まり文句のように言う
そんな冨士夫の言葉も、
単なるジョークとして
聞き流せなくなってきた。
冨士夫の良いところは、
親方気質なところである。
仕事が増えると仲間を呼ぶ。
得たモノはみんなで
廻そうという考え方なのだ。
しかし、その反面、
欲望の固まりのようなところもある。
一人占めして誰にも渡さない
裸の王様のようなところだ。
ケースバイケース、
どっちに転ぶか解らない。
その気まぐれさには、
あきれるほどの緊張感が伴うのだ。
この1990年の6月/1、2日の
バウスシアターの時もそうだった。
ほんとうは自分の感情に
向かい合いたいんだけれど、
入り込めないでいる冨士夫がいた。
CD発売記念のライヴということで
やけに仕事ノリだったからかも知れない。
逆に青ちゃんはノリに乗っていた。
仕事と割り切ったほうがやりやすいのだ。
ジョージ・ハリスンが大好きな青ちゃんは、
ステージの前面に出なくても
サイドから目立つことを好む。
女の子の黄色い声援を真に受け、
カッコつけの気取屋が躍動していた。
ベースのカズはいつだって音楽家である。
音楽を生業としていない時でも、
頭の中は常にリズムを刻んでいる。
ところが、TEARDROPSの3枚目の
レコーディングの時に、
PAをずっとやってくれていた
Jさんに改まって言われたことがある。
「カズのベースは冨士夫のサウンドには合わない」
と言うのだ。
ベースがサウンドの核になっていないから、
結局はギターでリズムを刻んでいるのだとか。
すると、ギターの遊びがきかなくなるんだという。
「それでいーんだよ」
それを聞いた冨士夫は笑いながら答えた。
「とにかく、俺はカズのベースで演りてーんだ」
そう言って一笑に付したのだ。
さて、常に試行錯誤していたのは、
ドラムの佐瀬である。
自らの名前に“ビッグビート”を付けてくれ、
と言ったかと思うと、
突然に2バスにしたヘビメタセットを
ステージ上にセットしてきた。
「おいおい、それじゃお前が見えねぇじゃねぇか」
そう言ってあきれる青ちゃんが言う通り、
デカイ佐瀬の身体が
ドラムセットの向こうに側に隠れる始末。
みんなの反対にあって、
通常のセットに戻したのだが、
この「MIXIN’ LOVE」ツアーからは、
電子ドラムを買わされた。
いつも何かを探しているのだろう。
それで、佐瀬が絶好調なら良いじゃない。
みんながそう思っていた。
バンドのカナメは常にドラムなのだから。
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さて、とにかく何だか忙しない日々だった記憶がある。
「MIXIN’ LOVE」発売記念ライヴだっていうのに、
もう次のアルバムの為の合宿に入ることになっていた。
「誰だ!? 俺たちの背中を押すのは!?」
なんて、そんな気分なのだ。
合宿はとりあえず6月の中頃から、
山中湖のサウンドヴィレッジで行った。
バンドからの要望だったのだ。
って、ゆーより、冨士夫が
そうしたかったのだと思う。
この山中湖でラフィンノーズと一緒になった。
これがきっかけで、
冨士夫はヴォーカルのチャーミーと仲良くなり、
彼の住まいまで遊びに行ったりしていた。
バウスシアターのライヴには、
プライベーツの延チャンやショーネンを筆頭に、
様々なバンドマンが駆けつけてくれていた。
TEARDROPSの客は、
とにかくミュージシャンが多かったのだ。
何よりも、この時代の若い世代自体が、
音楽にドップリと浸かっていたのかも知れない。
いまになって、改めて思う。
音楽は、その時代を反映している。
現代は情報過多の中で、
まるで雑多な出来事と一緒になって
音楽も流れてくるので、
音も情報の中に取り込まれ、
なかなか知覚の扉を刺激してくれない。
活動するミュージシャンたちも、
バランス感覚にたけていて、
生活資金は別に置いたりしているから、
ライヴ会場はステージの上も下も、
同じ趣味を持った者たちのサークル活動のようだ。
食っていけるミュージシャンたちは、
もちろん、いつの時代も
きらめく華を持っているのだろうが、
かつての近寄りがたさを意識しているのは、
このバウスの客世代より上なのかも知れない。
「いいか、絶対に芸能界には入るな。
音楽以外の仕事も禁止。
俺たちはミュージシャンなんだからな」
そう息巻く冨士夫と
心を通わせるのは愉しかったが、
経済はまた別の話である。
1990年の6月/1、2日、
TEARDROPSのアルバム
「MIXIN’ LOVE」発売記念のライヴを
吉祥寺にあるバウスシアターで行った。
なにはともあれ、天気にもめぐまれ、
東芝EMIのハッシー部長は、
珍しく奥さんを伴って現れた。
仲間たちが駆けつけてくれ、
若いキャピキャピ娘たちが
いつものように会場を盛り上げる。
1984年3月に開業した吉祥寺バウスシアターは、
もともとは吉祥寺初の洋画専門劇場だった。
2014年6月10日をもって、
その30年の歴史に幕を下ろした。
いま、吉祥寺のサンロードを
ドン付きまでまっすぐ行っても、
そこには何もないのである。
(1990/6月)