092『残暑/1990年大山・命の祭り』

なんだか、蒸し蒸しとモヤモヤして、
ちっとも気が晴れない。
そんな、真夏なのに梅雨のような気分でいたら、
持っていた全てのカードが裏返ってしまった。

「なんか、最悪な気分なんだけど」

冨士夫がいるときは、
そう電話すればよかった。
冨士夫は弱っている人間には、
めっぽう好意的なのだ。

「そんなときのために、オレがいるんじゃねぇか、すぐに来いよ」

そんなベタなセリフを
本気で吐いてくれる輩は滅多にいない。

まるで、駆け込み寺にでも飛び込むように
冨士夫参りに行ったものだ。
普段からのお布施が必要なのだが、
それさえ心得ていれば、
エミリと共に痛んだ心を散らしてくれる。

それは、まるで厚い雲間から覗いた
ひさびさに見る光の道のようである。
夏のフィーリングを思い出すかのように、
つかの間の晴れ間に浸る
刹那な気分だったような気がする。

そんな神聖なる冨士夫を
追いかけたわけではないのだが、
1990年の8月23日、
鳥取県の大山(だいせん)まで冨士夫を追った。

記録的な猛暑に見舞われたこの年は、
秋口まで厳しい残暑が続くのだが、
そんな8月19日から25日までの
7日間の規模で行われた
『命の祭り』に出向いたのである。

当時のノートを見ると。
21日に渋谷クアトロで
TEARDROPSのライヴを行っている。
29日にも市川GIOが入っているので、
本当にその隙間をぬった22日に
冨士夫は鳥取県に飛んだのだ。

僕は、それを追って23日の昼に
羽田から米子空港へと飛ぶのだが、
なんだか当時は、冨士夫の頭まで
トび気味な時だった気がする。

そんな風にジャンプしながらも、
23日と25日の2回に渡り、
冨士夫は『命の祭り』に出演した。

実際に現地に行ってみると、
フェスティバルの規模そのものは
そんなに大きなものではない印象があった。

でも、それは´88年の『命の祭り』と比べての話である。

八ヶ岳のスキー場(´88年の『命の祭り』会場)と、
鳥取県大山のスキー場では、地理的にも別モノであった。

今では、伝説扱いとなっている、
『´88年命の祭り』は、
それを仕掛けた人や体験した人たちが、
後に、90年代の日本の野外レイヴシーンの中心となり、
『Rainbow 2000』や『フジロック』のような
21世紀の夏フェス・ビジネスへとつながっている。

それに比べ、この『大山の命の祭り』は、
ステージそのものも小さく、
観客もそんなに多くはなかった。
しかし、それだけに密度も
濃いものだったのである。

この後、『命の祭り』は、
1991年の六ケ所村へと続くのだが、
反原発や“生き方”そのものへのメッセージ性が
より強い内容へと変化していくのである。

さて、『命の祭り』そのものは、
ザックリとそんなイメージなのであるが、
僕らの現実は、冨士夫自身が
それらの思想や運動に傾倒していくところにある。

TEARDROPSの活動が始まって3年余り、
ずっと良い子を演じていた冨士夫の意識が、
胸の内で剥がれ始めていたのだ。

それは、当たり前といえば、
当たり前な話なのであった。

度重なるドラッグの問題で、
積み重ねた時間を不意にし、
その度に反省して、
“ 普通に暮らす大切さ ”を
獄中からの手紙にまでしたためて
送ってきた冨士夫だったのだが、
それらの良心に無理が生じてきたのである。

要は、好き勝手にしたくなってきたのだ。
(はやいハナシ)

周りが望む“山口冨士夫”のカリスマ性を、
自分自身で支え切れなくなると、
冨士夫は決まって非現実へとトんでいく。

「ガキ共は好きだが、俺には他にすることがある」

とでも言わんばかりに、
軌道修正を始めたのだった。

僕らは大山の山奥で神聖なる空気に触れた。
出雲国風土記にも記述が残っている
大いなる神が宿る山なのだ。

ライブ終わりだったか、
オフの時間だったか忘れたが、
灯りも何もなく漆黒の暗さの中を、
何人かで手をつないで
歩いていたのを覚えている。
そうしなければならないほどに暗いのである。
そんな山道を宿に向かって
小高い丘を登り切った処で、
隣りにいた女性が声を上げた。

「あっ、円盤!」

とたんにみんながザワつき始める。

「ほんとうだ!」

「どこ?」

「ホラッ、アッチの向こうの空の下のほう」

な〜んて、世紀の一瞬にどよめいている。

「やっぱり、神聖なんだね」

なんて、僕も負けじと声を上げたのだが、
ほんとうは不思議なほど何も見えなかったのだ。

「おいっ!トシ、どこだよ?」

後ろにいた冨士夫が囁いてきた。
どうやら、彼にも円盤が見えないようだ。
どうやら僕ら2人にだけ見えないらしい。

「あんだよ! チッ! 行こうぜ」

心の曇った2人は、
UFO好きの馬鹿共たちから離れて
宿に戻ることにしたのだった。

「あいつら、絶対何かやってるぜ」

って、あらぬ負け惜しみをホザきながら……。

…………………………………………

あれから、実に27年目の夏の終わりを迎える。

冒頭のような優しく神聖な冨士夫は、
まさしく天へと上り、
今では、気に入らないと
天候不順を引き起こしたりしている。
(なんだか、そんな気がしてならない)

先週の土曜なんかもそうだ。

にわかに西の空から黒い雲が湧き出し、
あっという間に辺りが真っ暗になった。

同時に、突然、携帯の着信音が鳴り響く。

画面を確かめると“ふじお”の表示。

“ ちょっと、待て!”

むやみに出てはいけないのだ。
長年の勘が、そう諭す。
すると、8回の着信音の後に
携帯は留守電となった。

「おぅ、トシ、ぬぁにやってんだよ、お前ワ!」

と言う、少しロレった声が
スピーカーから流れ出てきた。

「今すぐ電話くれぃ!」

メッセージはそう締めた。

“ こりゃあ、ヤバいぞ ”

思い当たる節は多々あった。
冨士夫の頭越しに
幾つものブッキングをしていたのだ。
コッチとしては良かれと想った事も、
冨士夫にとっては逆だったりする。

まったく、やっかいなものだ。

とたんにカミナリが鳴り、
大粒の雨が降ってきた。
横殴りの風がなおも、
その最悪の情景を演出し、
辺りは、あっという間に
嵐のようになったのだった。

…………………………………………

方南通りの永福町あたりで、
突然の大雨に雨宿りをしていたら、
そんな冨士夫の事を思い出した。

冨士夫はときに優しかったり、
凶暴になったりもする。
そんなこんなが面倒なので、
ウッカリとコチラが
知らんぷりを決めていると、
その間にすっかりと
しょげかえった冨士夫が、
変幻自在の気色を
見せていたりするのである。

「逝く時は、ラオスあたりで、夕陽を見ていてぇんだ」

ほんとうに逝っちまう少し前に、
冨士夫は笑いながらそう言って、
一気に赤ワインを流し込んでいた。

いま、目の前に現れる幻や夢を見て、
いちばんに切ないのは、
失ってしまったそれらの時間が
惜しいからではない。

むしろ、今となっては
あの頃の夏の終わりそのものが、
そっくり懐かしくて
途方に暮れてしまうだ。

(1990年〜今)

残暑お見舞い申し上げます。

なんて夏なんざんしょ。

雨と雲ばっかりで、ちっとも晴れやしない。

ちっとは晴れたかと想うと、

これからまた雨模様なんだとか。

でも、そんな夏でも、夏は夏。

どなたさまも、お身体に気をつけてお過ごしくださいませ。

〜良い夏の終わりを〜

 

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