106『マジカル・ミステリー・ツアー /ドロップアウト』
あっという間の2月。
この時間の流れの速さに、
すんごい驚いたのは僕だけだろうか。
コンビニのパーキングに車を停め、
皆既月食のうすら赤い光を眺める。
“あのときも、まん丸な月だったな”
そのあわい月の光に
なんだか懐かしい感情を想い起こしていた。
あれは、1991年の早春だったと想う。
清里のオートキャンプビレッジを後に、
東京に向かって車を走らせていた。
中央高速の遥か向こうに、
まん丸になった月が
“ぽかんと浮かんでいたのを憶えている。
バックシートには小学生が2人寝ていた。
お姉ちゃんは、生意気盛りの6年生。
弟はこの春、学校に入学する
ピッカピカの1年生(ちょっと古いか)なのだ。
2人ともウチの子である。
もう、夜の10時を過ぎていた。
2人はおネムの時間に耐え切れず、
明日を迎えるための
幼い夢をみているようだった。
ついさっきまでは、
この子たちよりも少し大きくなった子たちが、
キャンプビレッジを取り巻いていた。
全員で60〜70人だっただろうか。
いや、もう少し多かったかも知れない。
各自配分されたビレッジから出て来て、
キャンプスペースの中心にある
円形の集会所に集まって来ていたのである。
その集会所の何もない
フラットな床の窓際に向かって
演奏用の機材を組んだ。
アンプとマイク、
ドラムセットを中心に
いつものステージセットが
出来上がっていたのだ。
ザワザワなのか、キャピキャピなのか、
表現はよくわからないが、
ちょっとした遠足気分のファンたちが、
そのセットの前で想い想いの時を過ごしていた。
言うまでもなく、ココにタムロっている
10代から20代の彼女や彼氏たちは、
ドロップアウト(TEARDROPSファンクラブ)の会員である。
「TEARDROPSは休憩しちゃうんですか?」
なかでも顔見知りの子たちが
切なげな顔をして訊いてくる。
本来のTEARDROPSには
どうにも似つかわしくないお嬢さんたちだ。
♪来るのは、いかれたヨタコウばかりさ♪
これじゃ、冨士夫の歌う歌詞も変えなきゃな
な〜んて、想っているところに
バンドのメンバーが
リラックスした雰囲気で現れた。
煙草の煙をくゆらせながら
ゆっくりとチューニングに入っていく。
ステージも何もないフラットな場面で
ファンたちが上手に自分たちのスペースを作っていた。
数人の女の子たちが中心となって
上手い事仕切ってくれているように見える。
とたんに、70年代のヒーローのような
出で立ちの冨士夫が、
持っていた煙草を袖の方に放った。
「今日はこんなに集まってくれてありがとう!」
投げ捨てられた煙草の煙が
放物線を描きながら
ギターが放つ爆音と重なっていく。
すかさず、ベースのカズが
佐瀬のビッグビートをうながす。
知らぁん顔していた青ちゃんが、
片足を蜘蛛のように上げて
大きくリズムをかき鳴らしたとき、
音の波長が渦になって迫って来た。
そう、いま、まさにファンたちだけの
最後の宴が始まったのである。
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ずっと、『マジカル・ミステリー・ツアー』
のようなことをしたいと想っていた。
いったい何処に行くのか
誰にもわかんないというやつ。
しのぶ(石丸忍)が生前、
愉しげに言っていたことがあったからだ。
「70年代の初期に日本のカルチャーが逆転した瞬間があったんだ。それは、たった2年くらいの期間だったけど、アンダーグラウンドがオーバーグラウンドの常識を飲み込んだ時期だった。当たり前のことはナンセンスと切り捨てられ、誰しもが意外性溢れる刺激を求めて動いていく。その真っただ中で俺も遊んでいたんだよ」
当時、しのぶは新宿『紀伊国屋』の
広報(プロデューサー?)みたいな位置にいたという。
デザイン雑誌『グラフィックデザイン』で、
僕が偶然にもしのぶの紹介記事を
見かけたのもその頃だったのだろう。
『ポスト横尾忠則/若きイラストレーター』
まさにしのぶは、高校生の頃の僕の憧れだった。
エミリを介して知り合ってから、
あの憧れの石丸忍が、
目の前で大酒をクラっている
しのぶと一致するまで
随分と時間がかかったが…。
そんなしのぶがほろ酔い加減で言う。
「フジテレビの特番でさ、企画を考えたんだよ。『マジカル・ミステリー・ツアー』をね。司会というかナビゲーターが愛川欽也でさ、何人かの芸能人と客を連れて新宿『紀伊国屋』から、行き先もわからないバスツアーに出るというやつなんだ」
しのぶは、その出演者たちのケータリングに、
こっそりとアシッドを仕込んだという。
当時は違法ではないグレーゾーンの液体だ。
「そうしたら、番組そのものが、な〜んか、滅茶苦茶になっちゃってね(笑)、ほ〜んと、笑ったよ」
おいおい、いったいどこまでが本当なんだか。
きっと、『紀伊国屋』提供の番組だったのだろうが、
70年代の初期に活躍した兄さんたちのハナシは、
いつ聞いても華々しくも危なっかしい。
その『マジカル・ミステリー・ツアー』自体は、
もちろんBEATLESの発案である。
僕は小学生のころ、
ビートルズに夢中で、
そんなツアーがあるのだったら
是非とも行きたいと想っていた。
そんな子供だった気がする。
「ファンクラブのために、最後に何かできねえか?」
冨士夫がそう言い出したとき、
このミステリーツアーの発想を思い出した。
ファンクラブのためのライヴは、
東京では渋谷のラママ。
大阪では十三のファンダンゴでやっていたが、
最後は意外な場所でやってみたいと想ったからだ。
「バスに乗って何処かに行くってのはどうだろう?」
観光バス会社に問合せたら、
意外と現実的だった。
バス1台に運転手とガイド付きで、
1日単価でリーズナブルに貸し切れる。
「決まりだ。それでいこうや」
時間もなかったので即決だった。
確か、年が明けた今頃だったような気がする。
早速にファンクラブに連絡をとった。
TEARDROPSのラスト・ライヴは、
3月27日の渋谷クラブ・クアトロだった。
しかし、本当の最後は、
ドロップアウト・ファンクラブの
ミステリー・ツアーだったというわけなのだ。
バス2台を借り切って、
早春の清里高原に向かった。
ファン、スタッフ全員分のロッジを借り、
円形の集会所で生演奏を行う。
ミステリー・ツアーにしては、
ハナっからネタばれだったが、
それでも愉しげなファンたちが
ラストのダンスを踊っていた。
この子たちがいるおかげで
僕たちは安心してライヴを
仕掛けることができた。
毎月のように連続して行うライヴも、
ファン同士がヨコの連絡を取り合って
駆けつけてくれていたからである。
実は、この最後のステージを
僕は終わりまで付き合っていない。
私的な事情で子供たち同伴だったのだが、
すぐに東京に戻らなければならなかったからだ。
バックシートに子供たちを寝かせ、
中央高速を東京に向かってひた走った。
気がつくと、まん丸になった月が
“ぽかんと浮かんでいたのを憶えている。
TEARDROPSの数年が、
いったい長かったのか短かかったのか、
このときはわからなかったが、
今になって想うと“時”というのは、
たんに時間の長さではなく、
想いの密度なんだって気がする。
それならば、TEARDROPSの時は
想いが詰まったまんまるな月だ。
それが、今夜のように
皆既月食のうすら赤い光ならば、
ずぅっと、眺めていたい
懐かしい景色なのである。
(1991年〜今)
PS/
去年の12月8日のイベントに、
ファンクラブの会長だったサザエが
手伝いにきてくれていた。
当時と変わらぬ姿とテンションで、
いまだに関わってくれるのが嬉しい。
あの頃のドロップアウトの子たちは
どうしているんだろう?と、たまに想う。
きっと、今なら40代〜50代の人たち。
もしかすると、
リアルな人生のミステリーに
直面しているところかも知れない。
な〜んてね、
当時はいろいろとありがとうございました。
27年前を振り返って
お礼を申し上げます。