107『リセット/春』

1991年の初春、
初台にあった事務所をたたみ、
仕事場を自宅に移した。
練馬の農村住宅地である。

住民よりもキャベツのほうが目立っている。
コンビニよりも駄菓子屋のほうが、
存在感がある地域である。
それでも生まれ育った愛着がある。
僕は何年振りかで大きくのびをした。

「いやぁ、すっきりだべ〜」

もともと僕はこんなんである。
緊張感のかけらもないスットコドッコイなのだ。
それが、なんで間違っちゃったかなぁ〜。
ロックだパンクだソウルだファンクだって、
やたらと、なめたりなめられたり、
ぐちゃぐちゃとつまらん見栄を張って、
金も無いのにある振りをして、
あるときゃ静かに息を止めている、ってか。

「いやぁ、まいったべ〜」

もう一度、空に向かって大きく深呼吸だ。

「ミュージシャンのばかやろ〜!」

さっそく僕は、いや、俺は、
溜まっていた憂さをを大きく吐き出した。
もう、誰の指図も受けねぇ。
自由に自分のために時間を使ってやるのだ。

パンを焼き、目玉焼きをころがしながら、
小学生2人を起こして言った。

「いいか、よく聞いて欲しい。今日から父さんはウチに居る。知らないと思うけど、実は父さんはデザイナーなんだ。わかる?デザイナーって、うん?」

子供たちは目をこすりながら
キョトンとしている。

「まあ、いい。とにかく父さんはウチに居るから。学校がつまんなかったら、いつでも帰ってきなさい」

と、子供たちを励まし、
ウチの裏手に新装開校した
新設小学校に送り出した。

さて、それじゃあ、
バンドのメンバーに電話でもするか、
と思って固まってしまった。
その必要がないのだ、
彼らを気にしなくても
よい日が来たのである。
僕は、いや、俺は今日から
生まれ変わったに等しい。
誰の指図も受けねぇ、のである。

でもさ、それじゃあ、何をしよう、か。

かつてはごちゃまんとあったデザインの仕事も、
バンドが忙しくなって、
順番にフェイドアウトしてしまった。
こんなヘタレじゃあ、
今さら誰も相手にしてくれない。
いや、合わせる顔さえないのである。

じいっと、手を見る。
なんてことをやってる場合じゃなかった。
とにかく、はたらかなくてワ。

庭を眺めながら考えた。
すると、役員になっている
編集会社があったことを思い出した。
写真週刊誌『金曜日』で、
イケイケ取材が有名だった会社である。

「もしも〜し、ご無沙汰してます。わたくしです、か●や。えっ!? わからない、って?え〜と、カワシマさんいますか!?…はい、かわっていただけますか、おそれいります。…………あっ、カワシマさん? か●やです。ご無沙汰してます。お元気ですか? えっ!? 2年振り?! そんなになりますか? いやぁ、早いですねぇ。ところで私が役員になる件ですけど…… えっ!? 解任の連絡ですか? いや、けっこう家を空けることが多かったもんで。そうですか、わかりました。2年経ってるんですもんね(笑)。すみませ〜ん、また。よろしく、ど〜ぞ」

ああ、最悪だ、俺は浦島太郎か。
あれから2年も経ってるなんて。
こりゃあ、まっさらな状態から出直しだな。

気がつくと、信じられないことに、
あっという間に日が暮れかかっている。
普段ならここから
ドコかの誰ぞと飲みにいこうかと
画策する時刻なのだが、
今の僕、いや、俺には
沈みゆく夕陽を眺めながら
献立を考える必要があった。

「夕食は何にすべぇか?」

当時の俺の新たなる試練は
主夫も兼ねることだった。
奥様が魔女だったのだから仕方がない。
魔法のように家を出たまま
彼女なりに人生の修行をしていた
タイミングだったのだ。

とたんに、俺の夕方からの自由な時間は、
真逆に回転して家庭の方を向いた。
そこで、スポーツ欄しか
読まなかった新聞から、
折り込みチラシを取り出し、
スーパーの特売に想像力を馳せるのだ。

「なになに…今日はブタのロースが安いってか!?」

なぁんてことに一喜一憂しながら、
それなりに新生活に慣れ愉しみ、
ひと月ほど月日をまたいだだろうか?!

久し振りにカズから連絡があった。
ハコバンでベースを弾いているという。

音楽で喰っていくことが
彼のポリシーである。
ならば、ロックバンドでなくてもいいのだ。

「ビアガーデンで演るから来いよ」

そう誘われて池袋西武の屋上に出向いた。

ビアガーデンでは定番の
枝豆と生ビールを注文して
ステージ前の席についた。

そこで、髪を短めに整えたカズと、
大ジョッキで乾杯したのである。

生ビールの炭酸と一緒に
心が熱くなるような
懐かしさがこみ上げてきた。

「佐瀬は事業を起こすらしいぜ」

カズがいたずらっぽく笑いながら肩をすぼめる。
さすがに佐瀬とカズは幼なじみである。
バンドを離れてもつながっているのだ。

(佐瀬はマジにその後起業して、翌年ウチに現れるのだが、その話はまたの機会に…)

「青ちゃんは?」

カズに訊かれて
少し前に青ちゃんから
電話があったときの話をした。

「すっかり落ち着いてるみたい。しばらく音楽はやらなそうだな」

なんとなく、カズを目の前にした手前、
そう言葉を濁したのだが、
青ちゃんは音楽を完全に
断ち切ったかのようだった。

エルトン・ジョンじゃないが、
家族との時間を優先したのだろう。
江戸っ子気質はこーゆーとき頑固である。
リセットの心意気も深いのだ。

冨士夫についてはお互いに何もわからなかった。
元気でソロ活動をやっているのだろう。
カズもあえて話題にしなかった気がする。

それぞれが、これまでの時間をリセットして
新たなる時間を作り始めていた。

子供たちに絵本を読み聞かせ、
寝かしつけたあとの自由な時間に
一杯やりながら庭を眺めてみる。

縁側の窓の向こうに、
親父が育てていた葡萄の木が
いつの間にかにツルを長く伸ばし、
小さな緑の実を付け始めていた。

俺は、いや、僕は。
これまでの音楽の仕事をリセットして、
何も無い空虚な時間に、
いったい何ができるんだろう?

な〜んて、心にも無い感傷に浸ってたときだ。
突然に電話が鳴った。

「トシ、俺、冨士夫。元気でやってるかぃ?」

ふいをつかれた感じだ。
おだやかで懐かしい声に、
思わずとまどってしまう。

「元気だけど、どうしたの?」

「良かったら、ちょっとだけ手伝ってくんねぇか?」

ソロ・レコーディングのための
リハに入っていると言う。
なかなか大変なのだろう。
だけど、ここで手伝ってしまったら
もとの木阿弥である。
全てをリセットした意味がない。

「わかった、考えてみるよ」

そうは言ってみたが断るつもりだった。
ただ、久し振りの冨士夫の声に
それをかぶせる気にはなれない。
一応、EMIのMディレクターに会って
内容を吟味する約束をしたのである。

いずれにしても断るなら早いほうが良い。
ヘンに期待してもらっても
困るというもんである。

翌日、さっそくMディレクターにアポをとって、
「本日はココにいるから」
と言う、永福町の住宅街の中にある
レコーディング・スタジオに向かった。

どーせ会うんだったら、
デザインの営業でもしてやろう。
冨士夫の事が気になっているという、
プライベーツやブランキー・ジェット・シティ
の仕事でもくんないかしら?
な〜んて調子の良い事を考えていたのである。

ロビーで待っていると、
トレードマークの口髭をヒクヒクさせながら、
アメリカン・スマイルで指を鳴らした
Mディレクターが現れた。

「ご無沙汰です、お元気ですか?」

「おかげ様で。すっかりリフレッシュしました」

僕は、いや、俺は、
リセットした自分を強調するつもりでいた。
断るのであれば、
ハナっからそのイメージがあったほうがいい。

「本人からお聞きになっていると思いますが、冨士夫のレコーディングがまったく止まっちゃってて」

「いや、内容までは聞いてないですけど。とりあえず、会ってみてくれという事だったので…」

「そうですか。いやね、リハの段階で先が見えなくなっちゃたんですよ」

このままではレコーディングを
中止しなくてはならないという。
プラン自体が暗礁に乗り上げてしまったらしい。

俺はもうマネージメントは
したくない主旨の説明をした。
小春日和の日差しが、
窓の外からど〜だ、
とでも言うように、
季節の変わり目を見せている。

「いや、マネージャーじゃなくて、レコーディングの進行を仕切って欲しいんです」

「それにしても音楽の仕事は…、うん? レコーディングの進行?ですか?」

「そう、バジェットが大変に厳しくなってきているので、大変かとは思いますが、何とか●●●万円で、やってもらえないでしょうか?」

「●●●万円でレコーディングを仕切れと…」

「はい、すぐに振り込みます」

「やりましょう!」

気がつくと、
もう一人の自分が応えていた。
いったい、どこで入れ替わったのだろう?
調子良くこの場で口座番号まで書いている。

「さっそく、冨士夫には連絡を入れておきます。それじゃあ、よろしく」

そう言ってスタジオを出て、
少しばかり霞んで見える春空を眺めた。
その瞬間、リセットした時間が、
再びリセットされ、
足元から急がされるような
不条理なリズムが湧いてきた。

翌朝、パンを焼き、目玉焼きをころがしながら、
小学生2人を起こして言った。

「いいか、よく聞いて欲しい。今日から父さんはお出かけすることもある。冨士夫ちゃんのお歌を録らなきゃならないんだ。知ってるだろ? 冨士夫おじちゃん、うん?」

子供たちは目をこすりながら
相変わらずキョトンとしている。

「まあ、いい。とにかく父さんは出かけることもあるけど、ご飯だけはちゃんと作るからね、元気で学校に行っておいで」

そう言って励まし、
ウラにある小学校に送り出した。

その小さな後ろ姿に春風が舞う。

それはまるで、
冬の憂さをリセットするかのような
暖かい風だった。

(1991年春)

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