132『チャー坊/『夢うつつ』25年目の行く春・後編』
もと『村八分』のメンバーの方から、
メールをいただいた。
チャー坊の追悼イベントを
行なうのだという。
その彼に、
改めて当時のエピソードを
訊いてみたのだ。
遠い日の出来事は、
いつの時も遥か夢の向こうに
あるみたいだ。
ぽつりぽつりと思い出す情景は、
果たしてほんとうの事だったのだろうか?
夢うつつの中で、
その全てが虚ろう中で、
彼の回想がはじまる……。
………………………………
チャー坊が亡くなる前日、
何の変哲も無いその日は、
バンドのリハだった。
とはいっても、
ギターが2人共来られなかったため、
ベースがギターも兼任するという
何とも変則的なスタイルだったのだ。
「もう、呑みに行こうか」
そう言いながら、
旧『村八分』からの
メンバーでもあったSさんが、
切りの良いところで
バスタムにスティックを置く。
とたんに、スタジオ中に
張りつめていた空気が、
“ふうっ”と、
ゆるんだように思えた。
「そやな、ほな、移動しよか」
チャー坊が
何故かホッとしたように
返答するのを合図に、
僕らはオモテに
出ることにしたのだ。
すえた匂いのする
狭い階段を上がると、
“ボアッ”とした暖かい空気が、
僕らの周りを取り巻いた。
昨日から降り続いた雨も
すっかりとあがり、
その日の京都は20度超えだったのだ。
4月の初めに満開を迎えた京桜も、
あっという間に散ってしまい、
花見客の喧騒のあとの夜景は、
いつもの日常を取り戻していた。
そんな春風に押されながら、
河原町今出川の交差点を
南に下がって行く。
その河原町通り沿いの店
『STUDIO37』に、
あの頃の僕らは
溜まっていたのである。
そこは今でも、
かなり広いガレージの奥に
店の入り口があって、
店内はさらに広く、
高い天井のある空間に
大きなバーカウンター、
テーブル席、ソファ席が
ゆったりとレイアウト
されているのだ。
僕らは常連顔で店に入ると、
バーカウンターを抜け、
いつものように片側奥にある
ブース席に陣を取った。
超大型モニターからは、
待っていたかのように、
ボブ・マリーのビデオが
流れていたのを憶えている。
僕は、音出し後の
軽い疲労感と高揚感の中で、
ソファにもたれて
ゆったりとしているチャー坊を
訳もなくぼおっと眺めていた。
うだうだと虚ろいゆく時間の流れに、
この人の妖艶な表情が重なっていく。
………………………………
チャー坊は結局、
´93年の7月4日に行なわれた
西部講堂でのライヴ以来、
ステージには上がっていないのだった。
その日のことを、
チャー坊を眺めながら
漠然と思い出していたのである。
そのとき『村八分』が
出演したイベントは、
京都大学軽音楽部の
『ROCK STEADY』。
ノーギャラで60分ほど
演奏するという出演条件に、
「ええよ、世話になってるから」
とチャー坊が了解したのであった。
そんなこんなで、
出番前の西部講堂付近を
メンバー数人で
うろうろしている時だった。
遥か向こうからシャカシャカと
現チャリに乗って、
チャー坊宅でよく見かける奴が
コッチに向かって来るのが映る。
何やら重そうに
パーカッションを
ぶら下げているではないか。
「どーしたん?」
目の前まで来たソイツに、
チャー坊が問うた。
「一緒に演奏したい」
「そんなん、急に言われても無理や」
と、困り顔で答えるチャー坊。
「じゃあ、今から警察行って、一緒にした、あることないことチクってくる」
ソイツが、
馬鹿馬鹿しいほどの
爆弾発言をした。
「何言うてんねん」
みんなで顔を見合わせて
大笑いしたその時だった。
瞬間、
隣に突っ立っていたチャー坊の姿が
消えたと思うと同時に、
そいつをボッコボコに
殴り倒しているところだったのだ。
慌ててみんなして
チャー坊を取り押さえたので、
事無きを得たのだが、
あの時は、ほんとうに驚いた。
チャー坊は押さえられた背中越しに、
「あー、そーやなー、ライブ前やし」
って、
すぐにクールダウンしていた。
………………………………
そんなチャー坊の姿が、
目の前のソファでユラユラと
揺れながら虚ろいでいる。
いつもゆったりとしているチャー坊が、
あんなに俊敏になるなんて、
“なんか可笑しいな”
なんて思っていると、
「名古屋はたぶん行ったことがないから、やろか」
ソファから身を起こし、
やにわにチャー坊が声をあげた。
次のライヴの話である。
名古屋のライブハウスから、
“こけら落としに出演して欲しい”
というオファーがきているのだった。
ずっと乗り気じゃなかったのに、
どうして気が変わったのだろう?
なんて、考えても仕方がない。
気がついたら右が左に、
黒が白になっているのが、
『チャー坊』なのだから。
その名古屋への連絡は
僕がすることになり、
この日はお開きとなった。
日をまたがずに
帰宅できたのである。
´94年4月24日、
曇ってはいたが、
あったかい夜だったのを憶えている。
………………………………
何の変哲も無い昨日が終わり、
同じように曇り空の今日が来て、
あっと言う間に日暮れた。
僕は昨日と変わりなく仕事をこなし、
帰宅して家内と夕食をとっていた。
その時だった。
家の電話が鳴った。
「はい、もしもし」
食べながらだったから、
少し声がくぐもった。
「チャー坊が今日死んだ」
そう言われ、
「えっ!?」
ふいをつかれた感じだったのだ。
受話器の向こうのSさんが
告げるその事実に、
僕は何の準備もしていなかった。
真っ白なアタマのまんまで、
ウチから15分くらいの処にある
チャー坊の住まいに駆けつけた。
親族の方々が力なくたたづみ、
途方に暮れている様は、
そのまま記憶深くに刻まれている。
死因は “overdose”
情けないことに僕は
何にも気づいちゃいなかった。
それほどまでに、
チャー坊の日常は普通にみえたのだ。
昨日から今日、
そして明日へと続く
何の変哲も無い日常の中で
虚ろっていたのである。
(当時のメンバーの方の回想)
………………………………
さて、チャー坊が亡くなったとき、
僕は冨士夫の近くにいなかった。
たまに連絡を取り合う
程度だったのである。
だけど、
しばらくたって
(チャー坊が亡くなった話を)
冨士夫と話したときは、
すごくミステリアスな
感じになっていて、
まるで『京都サスペンス劇場』
みたいな陰謀論を
聞かされた憶えがある。
あまりに裏読みした見方だったので、
内容が頭の中に入ってこなかったが、
冨士夫が受けたショックは、
充分に伝わってきたのであった。
『村八分』が誕生したのは、
50年近く前の話だ。
幾度もの復活劇があり、
チャー坊が亡くなるまで、
つまり、
1994年4月25日まで存在する。
あと少しすれば、
チャー坊の誕生日だったのに、
そうみんなが思っただろう。
5月5日で45歳に
なっていたはずなのだから。
春に生まれて、
春に旅立ったチャー坊が、
夏に生まれて、
夏に旅立って逝った冨士夫を、
穏やかなる地まで
迎え出てくれたのだろうか。
この世では生きにくく、
不安定な心の在り方を、
詩や曲にして
表現していた2人が、
かの地では、
安心してゆったりと
過ごしていることを願います。
この世は常に、虚ろいがちで
『夢うつつ』なのだから。
(1993年〜94年)
PS/
以下は、イベントを企画した
『村八分』の元メンバーの方からの
インフォメーションです。
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来たる4月25日で村八分のチャー坊こと柴田和志氏が急逝して25年になります。元メンバーの端くれとして追悼イベントをしたいなと思っていたのですが、レジェンドお二人に話をもちかけたところ快諾していただきました。
2019/4/25 拾得にて
「邂逅~25年目の夜~(柴田和志に捧ぐ)」
加藤義明氏(村八分)と花田裕之氏(ルースターズ、ロックンロールジプシーズ)
のジョイントライブを行います。
「チャージは安くしてできるだけ若い人に来てもらいたい」
との希望ですので、チャージは前売り3000円、当日3500円です。
17:30開場 19:00開演
ご来場お待ちいたしております。