136『チャー坊とテッちゃん』もうひとつの村八分3/村瀬シゲト
『村八分』は、
“メンバーにスキルがあるとか、
何かのエキスパートだとか、
そういう何もかもを
要求しないバンドだった”
という。
「その代わり、“オモロい奴だ” とかいうのが必要になってくるんや(笑)。それと、チャー坊が唯一シゲトくんだけには弱いバンドだったな」
そう言って、
よっちゃん(加藤義明)は笑った。
「そりゃあ、そうだよ。俺が初めてチャー坊と会ったアメリカの頃なんかは ”おいっ!チャー坊”とかさ、兄貴みたいにずっとものを言ってたんだから。それが、京都に来たら “あれっ!? 何かちょっと勝手が違うぞ ” って感じになってたな(笑)」
そう言って、
対面で手酌酒するシゲトさんも笑う。
ひと月ほど前、
2人練習したスタジオ帰りに、
ちょこっと居酒屋に寄ったのである。
すると、トーゼンのごとく
『村八分』のよもヤバ話が始まったのだ。
2人が加わったころの『村八分』は 、
すでにチャー坊仕切りの
バンドになっていたという。
幼なじみのテッちゃん(浅田哲)と、
地元のよっちゃん(加藤義明)。
この京都龍谷大学に席を置く2人が
チャー坊に寄っていた。
そこに信頼する兄貴(村瀬シゲトさん)
が加わったのだ。
まさに鬼に金棒である。
いっぽう、
音楽そのものが好きで、
生きる術(すべ)としての
音を必要としていた冨士夫は、
『村八分』のアイデアに
音楽を染み込ませる役目だった。
この頃、冨士夫の想い描いていた
ホットなシーンはすでに崩れさり、
大切だった仲間(青木真一)は、
京都を去ってしまっていた。
ひとりぼっちになった冨士夫は、
チャー坊の家で寝泊まりをし、
チャー坊の家の料理を食べ、
足をくずさない心で
日々を過ごしていたのだった。
(まぁ、それは冨士夫の得意技でもあったのだが)
その家の2階から、
思いついたように
チャー坊が階段を駆け下りて来て、
浮かんだばかりのアイデアを
鼻歌混じりに冨士夫に伝えるのだ。
「冨士夫ちゃんなんかは、チャー坊にとっての音楽を作り出してくれる存在なんやな。チャー坊は楽器も何もできひんから、頭の中に鳴っているフレーズや、イメージやらアイデアなんかを口で説明したり、ハミングで表現したりするんやけど、ソレを実際の音で現実にしてくれるのは冨士夫なんや。すると、“そうそう”とか、“そこはちょっと違うな” とか調整するのがチャー坊で、完全に2人の共同作業なわけや」(よっちゃん/談)
チャー坊の頭の中にある
イメージでしかなかった波長が、
冨士夫により
音の波に作り替えられ、
生み出される感じだった。
『村八分』の音楽が生まれていくと、
『村八分』の姿形と共鳴していく。
いつしか冨士夫も、
チャー坊のように眉を剃っていた。
自らもゆらゆらとうつろに存在を変え、
『村八分』であることを意識して
京の街を彷徨っていたのだ。
誰もが、
「もともとの冨士夫ちゃんは、
あんな感じじゃなかった」
と言う。
もともとのお人好しの笑顔が、
無表情な化粧顔へと変化し、
心の奥深くがゆがんで
くるりと廻り始めたとき、
チャー坊の想う『村八分』が、
くるくると世に現れ出たのである。
そんな瞬間とシゲトさんの加入が
時期的にオーバーラップするのだ。
…………………………………………
「『村八分』に入る条件として、まずは京都に俺のアパートを借りてもらうことにした。 だって、俺からしたらそうだろう。アパート、クルマ、カメラ付きの好条件の会社を辞めてまで、どうなるか解らない、叩いたこともないドラムを叩きに京都くんだりまで出向くんだぜ。せめて、住むところくらい用意してくれたっていいだろう、ってわけさ」
そう言うシゲトさんに対して、
「わかりました。アパートを用意します」
と、チャー坊とキーヤン(木村さん※1)は、
あえてかしこまって答えたと言う。
チャー坊の兄貴の手配で
さっそく市内にアパートを
借りることとなる。
「正直な話、それで俺も引っ込みがつかなくなったんだよな。会社を辞めて、早々に京都に行く事にしたよ。引っ越しの日にトラックでアパートまで行くとさ、驚いたよ、何十人って手伝ってくれる人がいてさ、荷物を運んでくれるのさ。“ようこそいらっしゃいました。どうぞ、どうぞ” なんて言っちゃってね、凄い歓迎だな、なんて思ったよ。それから、毎月の家賃もずっとチャー坊の兄貴の方で払ってくれるようになっていた。バンドでまだ何にも稼いでない俺にとっちゃあ、何とも不思議な気分だったよ」
そんな高待遇でのドラム練習の最中、
冨士夫が泊まるところも無く、
行きつけのBarのソファで
寝泊まりしている事実を知る。
「“エッ!”って、ビックリしたよ。俺が家賃まで出してもらって、のうのうとしているのに、冨士夫が泊まるところもないなんて “ちょっと、おかしいんじゃないか!?” って、チャー坊に詰め寄った憶えがあるんだ」
チャー坊の家は、
決して広くなかったという。
ソコにチャー坊と恋人のステファニー、
お兄さん、お母さん、
そして、冨士夫とで暮らしていたのだ。
だから、
居候だった冨士夫は、
遠慮して居場所を
無くすことがよくあった。
こう言っちゃなんだが、
真面目でおく手な冨士夫は、
しけ込む部屋もありゃしなかった。
「そんなことがあったから、俺もアパートを出る事にしたんだ。当たり前だろ、ドラムもろくに叩けないんだからさ、勘弁してくれよ!って、そんな感じで出たわけさ」
この頃のシゲトさんにとっては、
“まず、ドラムを叩けるようになること”
が日々の課題だった。
冨士夫先生のドラム特訓は、
連日の『ガロ(※2)』での演奏や、
『古代緑地(※3)』スタジオ
で行なわれたという。
「俺は常に真剣だったよ。だって、ドラムがもたったりするとわかっちゃうじゃない、聴き手にさ。そうすると台無しだろ?だからさ、ずっと緊張してたんだ。必死なのさ、真剣なんだよ。キビシいよ、ほんとに(笑)。冨士夫は“ズンズタッタ、ズンズタッタってやりゃあ良いんだよ”しか言わないしさ(笑)」
そのシゲト風
“ズンズタッタ、ズンズタッタ”は、
´72年8/27京都円山音楽堂
『村八分NO1コンサート』
で日の目を見ることとなる。
「円山音楽堂なんて『村八分』の曲さえも憶えちゃいない頃だった」
というシゲトさんだが、
11月の京都会館第一ホールから、
慶応大学『三田祭』へと
注目されるシーンが続く頃には、
いっぱしの『村八分』に
なっていったのである。
「不思議だったよな、チャー坊がいれば恐いもんなんて、何もなかったもんな。対バンのドラムなんかはみんな名のあるプロなのにさ、見栄を張るっていうか、相手の方が逆に一目おいてコッチを見てるっていうのが解るんだよ。お客にしてもそうさ。俺たちを(他のバンドと比べても)別格に見ているんだ。チャー坊と一緒にいると、俺も何だか特別な気分になってくるんだよ」
そう言うシゲトさんの言葉に、
よっちゃんが意味を添えた。
「それはさ、チャー坊もある意味、素人やんけ。テツも俺もシゲトくんも素人や。でも、それがこのバンドの特徴なんやって。チャー坊が絵を描いてるんやな。それには、もちろん、冨士夫ちゃんが音の要で、それで成り立つ絵なんやけどな。だけど、チャー坊はある意味、内にも外にも(自らの)見栄を張ってるから、休まるときがないねんな」
その見栄は見事に的を射て、
東芝やエレックを中心とした
メジャーレコード会社の
注目を集めることとなるのだ。
年が明け、
´73年の1月6日、7日には、
京大西部講堂で『村八分公演』
2daysを遂行した。
その勢いで2月には、
キャロルの登場で沸いていた
フジテレビ『リブヤング』に出演。
(キャロルの翌週が村八分だった)
この時、シゲトさん風
“ズンズタッタ”年表で計ると、
ドラムを始めてから、
たった半年余りの
出来事だったのである。
その円山からの音の流れを
時系列でずっと聴いていくと、
演ってる曲目や演奏が、
どんどん進化していくのが解る。
「だから、あのまま行ってりゃ本当に面白かっただろうな、って、今でも想うよ。何であそこで終わっちまったんだろうって残念で仕方がない。とにかく、チャー坊と冨士夫のコンビが他に類をみなかったんだよな。あの2人が凄かったんだ」
それに加え、
急激にテッちゃんの存在感が増していた。
三田祭の音源などを聴いていると、
テッちゃんのギターが
格段に良くなっているのが解る。
それが1月の西部講堂とかになっていくと、
冨士夫が弾いているのか、
テッちゃんなのか、
もう、どっちがどっちを弾いているのか、
まったく解らなくなる箇所があるのだ。
それほどまでにテッちゃんの
ギターワークは急激に伸びていたのである。
「そう、テツみたいな男はいないね。良い奴だよ、あいつは」
とシゲトさんが言えば、
「あのころのテツはポップメーカーだったからな。メンバーの誰よりも推進力があったし、何より優しいから、チャー坊よりもテツに皆が寄って行った時期やった」
とよっちゃんが答える。
そのテッちゃんがあろうことか、
5/5 京大西部講堂『村八分公演』を前に、
突然にバンドを離れることになるのだ。
「テツがやめた原因が、俺はいまだにわからない。テツにはリズム感がないだのなんだのとチャー坊が言い出したあの時、俺はまた、“チャー坊が変なことを言い出したな”くらいに思っていたんだ」
冨士夫とテッちゃんの
ギターの絡みが良くなることが、
チャー坊のヴォーカルを
より引き立てていたように想えた。
もともとがギターだった
よっちゃんも、
「アメリカに行くまでの間だけ、ベースを弾いてくれ」
とチャー坊に頼まれて、
ワンポイントのつもりでの
『村八分』への加入であった。
それが、
テッちゃんのリタイアにより、
あらぬ方向に立場が変わっていく。
「俺んところにテツは来よったもん。“何で辞めなきゃなんないのかわからへん”って。俺はテツのリズムは大丈夫だと思うし、辞める事ないと思うって話したけどね。その後チャー坊とどういう話になって辞めていったのか誰も知らないんや」
当時を振り返って、
よっちゃんが言った。
「テツは、ショックを受けてたよ」
と言うシゲトさんの言葉に乗せて、
よっちゃんは、
あえて無表情な顔を作り、
「すべて俺の推測なんやけどな」
と、話を続けた。
「テツとチャー坊は子供んときから、ずっとお互いを意識してきた幼なじみやんか。だから、テツはチャー坊の負けず嫌いなところをよう知ってる。だからな、いつもは自分を抑えとるんやけど、でもあの頃は、テツのポップな面がチャー坊の芸術的な面よりも抜き出てきていた時期だったんや。テツの音はあのとき、凄くのびていたから、チャー坊も驚いたんやないかな。冨士夫ちゃんの悩みなんかもテツが聞いてやってたし、リーダー的な存在にもなってきてた頃かも知れへん。だから、負けず嫌いのチャー坊は…、嫉妬したのかも知れへんな」
誰もチャー坊に面と向かえなかった。
誰も “何でだよ!”って、言えなかったのである。
「さすがの俺も何も言えない空気に呑まれてた感じだったよ」
そう言って、
シゲトさんは苦笑いをした。
1973年5月5日に京大西部講堂で
『村八分/ライブ』録音は行なわれた。
それは、チャー坊の誕生日の前日だった。
実に46年前の春のこと、
京都は快晴で
22度にもなったというから、
空調設備の無い西部講堂は、
少し蒸し暑かったのではないだろうか。
テッちゃんの代わりに、
よっちゃんがギターを弾き、
ベースには見掛栄一さんが
加わることとなる。
冨士夫はこのライブをもって、
『村八分』脱退を明言していた。
いや、もっと早くに失速していたのだが、
チャー坊に哀願されての演奏であり、
自分に対するけじめでもあったのだ。
「 “なんだコイツ等は!”って思ったよ!」
いっぽう、シゲトさんだけは、
当たり前のように怒っていた。
競泳選手のように持ち前の集中力で、
何もかもかなぐり捨てて挑んだ
“ズンズタッタ、ズンズタッタ”泳法は、
1年足らずで終了することとなる。
このときのバンドメンバーは
何処を向いていたのだろうか?
心はすでに海外に向き、
次なるシーンを想い描いていた
とでもいうのだろうか?
冨士夫だけは国内に残った。
ダイナマイツ時代からの旧友、
高沢さん(※4)と共に、
『ひまつぶし』に向かう道を
ゆっくりと模索していたのである。
……………………………………
『村八分/ライブ』
アルバムが発売されたとき、
僕は高校生だった。
世間はフォーク流行りで、
なんだか刺激的ではなかった。
なので、嬉々として、
当然のごとく小遣いをはたいて
この2枚組のLPレコードを買ったのだ。
“解散したバンド”
のデビューレコードという事実に、
逆に“観て確かめる事ができない”
ゾクゾク感があったのだと想う。
過剰に期待して針を降ろしたので、
その薄っぺらな音質に
ガッカリしたのを憶えている。
確か、1度だけ聴いて、
仕舞いには忘れられる
レコードの類に入るのだった。
そこから8年くらいが経ち、
冨士夫と知り合ったことで、
再び『村八分/ライブ』を聴いた。
その時は意外に(というのも失礼な話だが)
良いと感じたのだ。
音質などは関係のない、
深みを感じたのである。
そこからはどんどんと聴き入った。
チャー坊の詩を感じ取り、
染み入るような冨士夫の音に揺れた。
まあ、そんな風に想いながら
小説のように『村八分』を
眺めていたのかも知れないが……。
……………………………………
「(村八分は)
レコーディングの前に
解散したんや。
テッちゃんが抜けて、
それで村八分はほんまに終わりや。
村八分はテツで始まって
テツで終わった。
そう思ってるねん」
´90年にチャー坊と会ったとき、
チャー坊は、そう言って
横に座るテッちゃんを見た。
「そういうのもあるけど、
やっぱり “なんで” 解散したかは、
謎なんちゃう」
そのとき、
チャー坊の目線をかわして、
さりげなくテッちゃんが微笑んだ。
瞬間、目の前の2人が、
幼なじみで仲の良い、
小さな子供のように
映った気がしたのである。
〜なおも続きます〜(1972年〜90年)
※1キーヤン(木村英輝)/60〜70年代、MojoWest代表として数々のイヴェントを主催。村八分にとっては、その名を世に知らしめる立役者として存在した。京都が生んだ壁画家。大学講師も務めた。http://ki-yan.com/
※2ガロ/村八分が(練習も兼ねて)出演していた京都のディスコ。
※3古代緑地スタジオ/国立にあった『マーススタジオ』などと同オーナーが運営していた音楽スタジオ。
※4高沢さん/デビュー前のダイナマイツから冨士夫を知るくせもの。面白くてヤバい方である。今、何処でどうしていることやら?会いたい一人だ。
ドラネコ(aka.あくびして) / 村八分 (from 三田祭 1972) 2019 Remaster