138『人生の不思議な糸』もうひとつの村八分5/村瀬シゲト
´73年5月の『村八分ライブ』の後、
8月の終わりをもってバンドは解散した。
メンバーそれぞれに
ギャランティーが渡され、
冨士夫以外の全員は
嬉々として渡米したのであるが、
まあ、そこら辺の海外話は
またそのうちに。
…………………………………………
「『村八分』が終わってどうしようか?っていう時に、よっチャンには子供がいたんだよ。だからさ、アメリカから帰国してから2人して飯田橋の職安に行ったんだ。だって喰わなきゃなんないだろ!?」
そんな切羽詰まった2人を、
職安の役人はまともに
取りあってくれなかったという。
「あんたたち、真面目に考えてんの?そんな髪の毛して」
って、まず言われたのだとか。
そりゃそうである。
『村八分』のまんまの恰好で、
どろ〜っと、「仕事あるぅ?」
って来られても何も無い。
「断られちゃってさ、ほんと、冷たいもんよ。でも、まぁ、立場が逆だったら俺も同じことしてたかもな(笑)。それでさ、困っちゃったんだよな、俺はフリーだし、お袋んとこに行きゃあ、なんとかメシ食えるんだけど、よっチャンには子供がいるじゃない、何度も言うようだけど、今日喰う飯もままならないわけさ」
そこに、
「まいど、お騒がせしております〜」
ってクルマが通った。
「“おおっ、コレだ!”って思ったね。ちょうど俺は免許を持ってたからさ、気がついたらよっチャンを横に乗せて“ちり紙交換”してたってわけ(笑)」
ちなみに、“ちり紙交換”とは、
トラックで巡回して古紙などを回収し、
ちり紙、トイレットペーパーなどと
交換する古紙回収のことである。
(世間にはまだ“ちり紙”が存在した時代/トイレットペーパーは新しいアイテムだったのだ)
´73年の第4次中東戦争により
起きたオイルショックの影響で、
日本は物価指数が23%も上昇し、
“狂乱物価”という造語を生み出す。
「トイレットペーパーが無くなるそうよ!」
って、誰が最初に言ったかは知らないが、
トイレットペーパーや洗剤など、
原油価格と直接関係のない
物資の買占めの為に、
日本中のオバちゃんたちが
我れ先にとスーパーに走ったのだ。
「つまり、紙の需要が高騰している時だったんだな。上手い日なんか一日4万くらいになったんだぜ」
実際に当時の新聞募集広告には、
“ちり紙交換、月収50万円確実保証”
と載っていたという。
当時の金銭価値は、
今の倍の価値観だろうか?!
その当時、時を同じくして冨士夫が
京都で“ちり紙交換”をやっていたことを、
先日、『BAMBOO』の高濱(たかはま)さんから
聞いたばかりであった。
「ソレは知らなかったなぁ(笑)。冨士夫もやってたのかぁ。可笑しいね、東京と京都で『村八分』のメンバーが“同時に“ちり紙交換”やってたなんて」
(この頃、“ちり紙交換”やっていた若者たちは多かったらしい)
そう言ってシゲトさんは高笑いをした。
と、思ったらすぐに真顔になって、
「でも、ヴォーカルはコッチにいたんだぜ」
と言う。
「チャー坊もやりたいって言うからさ、俺等のクルマに乗せたんだ。奴はヴォーカルなんだから、とーぜんマイクを持つわな。俺は運転手だ」
「じゃあ、行くよ」って、
「たいへん、おさわがせぇしておりますぅ〜♪」って、
「例のちょっと京都訛りの調子で奴がやるんだよ(笑)。でも、それが、また、ぜんぜんダメなのさ(大笑)。あの調子の声でさ、でっけえ声でさ、
「たいへん!おさわがせぇしておりますぅ!」って!!
すると、ガラっ!と、近所の窓が開いてさ、“うるさいのよ!”だって。“赤ん坊が寝てんのよ!”なんちゃってさ、俺なんか「すんません」とか、すぐさま謝っちゃうんだけどさ、チャー坊はそうはいかねぇ。余計にムキになっちゃうんだよなぁ、ほんと、あの性格はどうしようもねえよ(笑)」
それでも、
根気よく1年間続けたら
少しはまとまった資金になり、
それを元手に再び渡米する
ことにしたシゲトさん。
カメラもバンドも置いて、
次なるシーンを想い描いたのだった。
「アメリカに戻ってからの俺は、アクセサリー(彫金)を作っていたんだ。知り合いに習ってね、せっせと始めたってわけさ。だけどね、それを売るのは昼間なんだけど、作るのは夜なんだよ。ほどなくして俺は気づくってわけ、“いったい、いつ寝ればいいんだい!?”ってさ」
そこでシゲトさんは思案する。
「このままじゃ立ち行かないぞ」
そう思った時、
“ちり紙交換”をやったときの
倉庫を思い出した。
西荻近くの松庵にその倉庫はあった。
そこに、廃品になった着物が
積み上がっている
情景が浮かんだのだった。
“状態のいいやつを古着屋に卸したって幾らにもなんないだろ!?”
日本に居たときは、
そう思ってほぅっておいたのだが、
アメリカで壁際に追い詰められた時、
その情景がまるで宝物のように
浮かんで来たのである。
さっそく、当時まだ、
“ちり紙交換”をやっていた
仲間に連絡をとり、
状態の良い着物を見つくろって
アメリカまで送ってもらうことにした。
「ソレをアメリカ人たちに見せたんだ。「どう思う?」ってね。すると「これ、シルクだろ!?1枚100ドルくらいになるんじゃない!?」ってね、そんな馬鹿な事を言うのさ。日本ではさ、着物の質なんかおかまい無しに重さで計ってたからね、キロ300円くらいなわけ。つまり、着物1枚100円もしなかったのが、アメリカでは100ドル(当時1ドル250円=25,000円)にもなっちまうんだから驚くよな。そこからだよ、俺の仕事が始まったのは」
その、単純計算で250倍の
日本からの輸入ビジネスで、
シゲトさんは大儲けをする。
「今じゃ、着物はアメリカでも“KIMONO”って呼ぶんだけどさ、それは俺が売ってからなんだっていう自負があるよ。まぁ、こうやって流れを言っちゃうと、実に可笑しなもんなんだけどね。人生ってそんなもんだろ!?ずっとつながっているのさ」
それからのシゲトさんは
順調に売上を伸ばしたのだが、
儲かるビジネスは
寄ってたかって、
皆が手を出すのが世の常である。
次第に別案を余儀なくされていく。
中国に工場を作り、
日本の家具などをリサイクルして
アメリカに輸入する
ことなどもしていたが、
家具は輸送代が
かかり過ぎたのだとか。
´90年に『TEARDROPS』で
シスコに行った時、
「シゲトは骨董品で成功したんだ」
と冨士夫から聞いていたから、
いわゆる日本で云う
“目利きの骨董品屋”さんってやつを
想像していたのだが、
「あの頃はまだ『KIMONO』を中心にやってたよ」
と、先日の酒の席で言っていたから、
それなりに『KIMONO』の
息は永かったのかも知れない。
「可笑しかったのはさ、ある時『KIMONO』の卸し代金をもらって、ジャケットのポケットに無造作に入れたまま、それをクリーニング屋に出しちまった時の話さ」
1万ドル(当時で250万)はあろうか
という封筒を胸の内ポケットに入れたまま
事務所の壁に掛けていたら、
従業員がそれを
他のクリーニングと一緒に
出してしまったらしい。
「“やっちまった!”って、思ったよ」
あきらめ半分で中国人が経営する
クリーニング店に駆け込むと、
「コレあるね」
って、綺麗にたたんだ紙幣の束を
差し出されたのだという。
聞けば、大型洗濯機の中で
グルグルと紙幣が廻っていたのだとか。
洗濯機の丸い窓の向こうを
ブワーっと大量の紙幣が
埋め尽くして廻っていたのだという。
「コレが本当のマネーロンダリングってか!?なんちゃって。
もちろん、ワルい金じゃないけどな(笑)」
…………………………………………
10年ほど前、
日本に戻って来た時に、
「何だよ、帰って来たのかよ。じゃあ、一緒に演ろうよ」
と冨士夫から声がかかり、
福生のチキンシャックまで
シゲトさんは出向いた。
「だけど、あの頃はもう難しかったよな。冨士夫はテキーラなんか呑んじゃってさ、へろへろな感じがあった。結局、何も弾けずにへたり込んじゃうんで、また今度、時間を空けてからやろうってことにしたんだ」
かつて、『村八分』で
共に過ごした期間は
1年余りだっただろうか。
「実は俺、冨士夫のことはあんまりよく知らないんだ」
とシゲトさんは言う。
「もちろん仲良いよ。旧友だし、特別な間柄だと想ってるよ。だけど『村八分』のころは、ガロで練習している時ぐらいしか会ってなかった。練習の後に呑みに行って話したりはするんだけれど、お互いに深いところまでは話さなかったからさ、生い立ちとかはタブーだったしね、時代的にもクールっていうかさ、そんな感じだったんだよ。そういう意味でね、俺は冨士夫のことはあんまりよく知らない」
シゲトさんは原宿にも
小さな店を出したことがある。
「あれはいつの頃だったんだろう?70年代の終わりくらいだったかな?俺は原宿にも小さな古着屋を出すんだ」
開店前のその店の中で
商品の準備をしているとき、
ふっと、少しだけ開いてる
店のシャッターから差し込む
外光の影が動いた気がした。
見ると、男の足が
光をさえぎっているのが解る。
「その時、店の前で立ち止まってる靴を見たとき、俺は何故か冨士夫を思い出してね、ガラガラガラってシャッターを開けてみたらさ、そこに本当に冨士夫が居たんだよ。ビックリしたよ、ほんとうに偶然なんだぜ」
実は、その時の冨士夫は
出所したばかりであった。
シゲトさんの店を
誰かから聞いて来たのか、
それとも、ほんとうに
奇跡的な偶然なのか?
今となっては誰にも解らない。
「それは、俺にとっちゃ、今でも不思議な出来事のひとつなんだよ。それがさ、冨士夫が出所したその日だって言うんだから。その足で偶然にも俺の店の前まで来たって言うんだから、笑っちゃうよな(笑)。“俺、出て来たばっかなんだ” って言うんだぜ。だからさ、「寿司、喰いにいこうぜ」って連れて行ったんだよ。突然だったから手持ちが3万くらいしかなかったんだけど、ソレを渡してさ、“出所祝いだ”なんて笑い合って、なんとも不思議な気分だったよ」
このエピソードを聞いて、
村瀬シゲトという人の情が
心の奥深くまで
染み入ってくるような気がした。
「俺は、人生には不思議な糸があってさ、それが様々につながってるのかな?って想うことにしているんだ。シスコで偶然にチャー坊と出会ったときもそうだけど、この時の冨士夫にもソレと同じ運命を感じたんだよな」
チャー坊が何よりも信頼したのは、
こんなシゲトさんだったのだろう。
繊細でアンバランスだった心には、
大きくて安心できる感性が
必要だったのかも知れない。
「シスコにいるころさ、チャー坊の汚ったねぇノートを見たことがあるんだ」
そう言って、
まるで、自分だけが知っている
秘密事のように、
悪戯っぽくシゲトさんが微笑む。
「そこには、全部ひらがなで小学生の書くようなミミズ字でさ、詩みたいなもんが書いてあるんだ。例えば『くたびれて』とかね、書いてあるのさ。だけど、その時はまだ何にも起きていないときだったから、“なんだこれ?”って笑っちゃったんだけどね、俺。その詩がさ、あとになって『村八分』の歌になって聴こえてきたときには、ビックリしたんだよ。あのミミズ字に命が吹き込まれて、ステージを舞っているのを感じたんだ」
物事には時おり、
その人にしか感じることのできない、
快感を呼ぶ事がある。
「それはきっと、俺にしかできなかった“想い”なんだろうな」
アメリカから帰国して、
いきなりスティックを持たされて、
進化していくバンドの中で
ひとり緊張して固まっている時、
ステージに現れたチャー坊は、
「日本?関係ないで!」
と振り返って、叫んだという。
「俺は、そんなチャー坊に、魅かれて入ったんだと思う。冨士夫だってそうさ、“俺たちは世界に行くで”って言うチャー坊に引っ張られていたんだよ」
想いもしなかった事が、
次から次へと起こるのが
シゲトさんの人生ならば、
そこに絡む糸は
不思議な縁を
描いていくのかも知れない。
「あの時、俺は本気で想ったんだ」
ステージで初めての
スポットを浴びながら、
「このまま、ほんとうに
世界に行っちまうかも知れないな」
って。
(1973年〜今)