148『立川通り』
立川駅を背にして、
山影に向かう真っ直ぐな
立川通りを行くと、
Kさんが住むマンションが見えてくる。
「マンションのトイ面に新たな事務所を立ち上げたから、看板のデザインをしてほしい」
と言われ、
年も明けた晴天の日中に
ホイホイと出向いたのだった。
そのKさんとは30年来の仲である。
僕よりも10歳は年上の
気の良いKさんは、
かつては福島でラジオの仕事を
していたらしいのだが、
知り合いになった頃は
歌舞伎町のど真ん中で、
チャイニーズクラブの店長をしていた。
「ニーハオ、いらっしゃい」
愛想の良いKさんは、
その少々広めなヒタイを
ポンッ!と叩きながら、
太鼓持ちのように
日本人客を招き入れていた。
その後Kさんは、
突然に独立したかと思うと、
にわかにプリント屋を開業し、
今度はホストたちの看板を
歌舞伎町の街並に飾り出したのだ。
そこからは誠にいい加減で
簡単な説明になるが、
山あり谷あり平地ありで、
あらゆる人脈と運命の川を泳ぎまくり、
10数年ほど前から
立川に移り住んだのである。
「いらっしゃい、久し振りだな」
新しい事務所は、
ほんとうにマンションの真ん前にあり、
Kさんはまだまだ
それらの片付けのまっ最中であった。
「オレは今、人生の最終コーナーなんだ。ほい、珈琲だ」
そう言って、
温かい缶珈琲を差し出してくれる。
自身の人生も70代に
さしかかったところでの業務拡大は
大変なエネルギーを要するのだろう。
コチラも缶珈琲1つで
釣られている気分になる。
「まっ、3月には片付くからな、まずは看板のデザインを頼むワ」
夜も眠れないほどに
計画を練っているという未来の片隅に、
どうやら僕も存在しているらしい。
それならそれでコチラは構わない。
行き当たりバッタリの人生は
来るもの拒まずなのである。
毎度のごとく会う度に
繰り返す思い出話を
小1時間もしただろうか。
春先の新展開を約束して
事務所を後にすることにした。
今度はまっすぐな立川通りを、
駅に向かって戻って行く。
冬のおだやかな日差しの中を歩き、
はるか昔に想いを馳せる。
此処は冨士夫とも
多くの行き来をした道だったのだ。
どこまでもまっすぐな道は
まるで時空の想いを映すように見える。
ゆるやかな坂にさしかかったところで
冨士夫の幻影が語りかけてきた。
「腹すいてねぇか!?ココでメシでも喰って行こうぜ」
デニーズの前で佇む冨士夫が、
ほんの小さな自由を訴えるように
微笑みかけてきたのである。
“そうだな、このまま病院に戻るのも忍びない”
担当医の困惑顔が頭をよぎったが、
すぐに振り落とす事にした。
外階段を上がり、
いつもの窓際のテーブルに陣取ると、
「俺はステーキとワイン。常に最後の晩餐だからな」
と冗談めかして
言い放つ冨士夫がいる。
まるで、つかの間の快楽を
一気に流し込むかのように
赤ワインを飲み干すと、
冨士夫は大きく息を吐いた。
「あぁ〜、美味い!知ってるかい?人は息を吸って生まれて、息を吐いて死んで行くって」
そう言って、ギロって人を睨み、
実に愉しそうに笑うのだった。
窓の外が暗くなっていき、
一瞬の心地よさが
夜景の中に流れ込んでいく。
その立川通りのデニーズから
三筋も駅方向に行くと、
冨士夫が最後までお世話になった
立川の相互病院があるのだ。
そんな事を思い出しながら
真っ直ぐな道を歩いていた。
病院通いをしていた切ない想いが
グルグルと頭の中を廻っている。
ほぅっておくと
知らずに過ぎて行く1日が、
あの頃は、
どうしたらよいのかと
考えあぐねる日々だったような気がする。
真っ直ぐに進んでいるつもりだった道は、
いつの間にかに曲がっていて、
どうやら方向さえも定まらないのだ。
「おいおい、この道で合ってるのかぃ?」
そんなとき、
決まって冨士夫は問いかけてきた。
行き当たりばったりの動線は、
常に良い景色ばかりではなかったが、
それでも冨士夫は
愉しもうとしてくれていた気がする。
立川病院の担当医に、
「もう一滴も酒を呑んではなりません」
と告げられ、
しょぼ〜んとしながら
真っ直ぐな立川通りを帰った。
「温泉でも行って、ゆっくりしようぜ」
と入院時のつかの間の外出に、
新奥多摩街道に向かって
クルマを走らせたのを思い出す。
そんな事を考えながら、
立川通りから駅に向かって
曲がろうとしていたときである。
ハッシー(もと東芝EMIの部長)
から電話がかかってきた。
「元気かい?元厚木まで遊びに来ないか」
と言うのだ。
「ちょうど今、Kさんの新しい事務所に行ってきたところなんです」
そう応えた。
偶然、ハッシーとKさんとは
知り合いだったのだ。
ってゆーより、
Kさんが店長だった
チャイニーズクラブに
僕を連れて行った張本人は
ハッシーだったのである。
まあ、30年も前のことであるが。
翌週に元厚木まで出向く
約束をして電話を切った。
人の縁とは妙なものだ。
TEARDROPSのライヴに
ハッシーが来なければ、
東芝EMIとつながることもなかった。
そのハッシーがチャイニーズクラブに
僕を連れて行かなければ、
Kさんと知り合うこともなかったのだ。
もう日が暮れかかっていた。
真っ直ぐな立川通りを左に曲がると、
立川駅の南口につながっていく。
横断歩道のある信号を渡り、
ふっと、後ろを振り返ってみた。
はるか向こうの病院の前で、
入院着のまま手を振る冨士夫が
景色の中に浮かんで見えた。
「今度のライヴはいつだっけ?」
夕暮れの中で、
懐かしい声が聞こえた気がしたのだ。
(2020年1月)
みなさま、
明けましておめでとうございます。
今年も随分と過ぎましたが、
よろしくお願いいたします。
どうも、50代のころに
再会してからの冨士夫は
なんだか切なくて、
それでいて哲学的だったりするので、
なかなか話がまとまりません。
それでも、周りの人隣りに
色々とエピソードを聞きながら
進めて行こうと思います。
まずは、当時、
東芝EMIにスカウト
してくださったハッシーから。
元厚木まで行って
思い出話を聞いて来ました。
それでは、
今年も『よもヤバ話』を
よろしくお願いいたします。