152『ゲームチェンジャーGame changer』

『山口冨士夫とよもヤバ話』
を書き始めて5年目の春がきた。

エミリが冨士夫としのぶを引き連れて
我が家を訪れてから、
実に40年近い年月が経つのだ。

その頃とたった今とを比べると、
僕らはとっても良い時代に
若い時期を過ごしていた気がする。

当時は未来への選択肢が
幾つもあったからだ。
とりわけ怠け者の僕は、
いかに自由に過ごすか考えていた。

両親の職業が学校関係だったので、
保守的な考え方に対する
反発があったのかも知れない。

「デザイナーは第三次産業だからな。社会が沈滞すると喰っていけなくなるぞ」

社会科の教師だった親父は、
僕がデザイン学校に入学する際に、
皮肉なる激励(?)を贈ってくれた。

「だからな、生涯、結婚はやめておけ。家族に苦労をかけるからな。とくに子供は可哀相だ」

と言われた矢先に
子供が産まれることになるのだ。

今から思うと、
「あっ!」という間の出来事だった。

22歳で学校を卒業したのだが、
就職もせずに何となくだらだらと
雑誌や喫茶店にイラストを描いていた。

西城秀樹のゴースト・イラストが最初の仕事。
ヒデキの“僕の好きなタイプの女の子”を
描くイラストの仕事である。

「上手くても困るし、下手でもダメなんだ」

と、集英社の編集者に言われて
左手で下書きをしてから描いた。
5000円だったのを覚えている。

けっこうボロいじゃないか。
(あくまで原稿料は発行部数に比例する)

旺文社の中学時代シリーズの場合は、
「描いたイラストが手のひらに隠れたら1500円、はみでたら2000円ね」
と担当のおばさんが言うので、
わざとでっかく描いて持って行ったら、
「これは反則。さっ、やり直し」
とか言われて、
ふてくされたのを覚えている。

原宿の『クレヨンハウス』用に
イラストを描いて展示したら、
銀座で何店舗も喫茶店を
やっているオーナーが来て、
「ウチにも描いたものを展示しないか」
と誘われ、
アンチックでドデカい店まで出向て行った。

と、そこまでが
我が人生のプロローグある。

自由にはなりたかったが、
喰える自由人になりたかったので、
育ての親でもあるオバアちゃんを訪ねたら、

「フランスに行ってハクを付けて来たらどうかねぇ」
と言う。

芸術家になるなら
何てったって“おフランス”だったのだ、
オバアちゃん時代の価値観は。

「パリでラーメン屋を始めた知り合いがいるよ。電通っていう会社にいた人だから、絵のほうも詳しいんじゃないかねぇ」

と聞いて、
おフランスに行くことにした。
(実はオバアちゃんっ子なのである)

しかし、そのチャレンジの前に
またしても親父が立ちはだかった。

「パリでのたれ死んだらどうするんだ」
と激高したのである。
(基本的に親父は、いい加減な息子の性格を見抜いている)

そうなったらどうしよう、
という思いも多少あったが、
自由人になるためには譲れない。

フランスのレジスタンスのよーに、
隠れながら着々と
計画を進めていたら年が明けた。

70年代最後の年の幕開けである。

正月明けの3日だったか4日だったか、
彼女に呼ばれて
吉祥寺の喫茶店に出向いたら、
彼女の隣りに、
(彼女の)同級生である
エミリが陣取っていた。

「明けましておめでとう」

「おめでとう、パパ」

挨拶を返してきたのは
彼女ではなくエミリのほうだった。

「えっ!? パパ?」

「そーよ、パパ」

「……………………」

「覚悟してね、パパ」

あくまで優しく穏やかに、
彼女を気遣ったエミリが
重い笑顔で迫ってきたのだ。

“Game changer!”

総ての場面がスーッと
変わっていくのを感じた。
回り舞台に親父が立っていて、

「結婚はやめとておけ。とくに子供は可哀相だ」
というセリフを放っている。

が、実際に親父に打ち明けてみたら
意外にも手放しで喜んだのだ。
「神様がお前の自由を許さなかったんだな」
と、高らかに笑ったのである。

…………………………………………

若い頃の景色は
ほとんどが自己中なので、
ナルシズムと自己弁護に満ちている。

と−ぜんのことだが、
結婚したとたんに3人家族になった。

最初は両親と同居したのだが、
やはり独立するほうが自然である。

彼女の提案で
北鎌倉にある借家に居を構えた。
裏山が季節ごとに色を変える
和風の平屋であった。

和障子を開けると、
透かし窓の向こうに
落ち桜の花びらが散っている。

そんな季節に引っ越したのだ。

“こーゆーのも、いいもんだな”

始めて見る風情のある景色に
感じたことのない情感が、
まさに満ち溢れている、
そんな瞬間だったのだー

エミリ/冨士夫/しのぶ/
の連合軍に奇襲されたのは。

“Game changer!”

かつて味わったことのない
とまどいの日々が始まった。

ど−しようかと思う間に、
日常生活が一変したのである。
が、彼女は明らかに喜んでいた。
遊び相手が来たからだ。

すぐに、しのぶは戦線離脱したのだが、
冨士夫とエミリの2人は
そのまま北鎌倉に居着き、
我が家で愛をはぐくんだ。

それでも僕は
平静を装って会社に通った。

冨士夫とエミリの2人は、
ストーンズのマーシーマーシー
何ぞをデュオしながら、
僕の弁当を作ってくれたりする。

特に白飯の上に『トシ』と、
シャケの切り身で描いた冨士夫弁当は、
“村八分弁当”として、
会社の先輩方の話題になったものだ。

結局、どーしたことか、
自分でも意外だったのだが、
けっこう愉しい半年間だったのである。

やがて、
冨士夫とエミリの2人は、
横浜に新居を構え、
冨士夫は突然、焼き芋屋になる。
しかし、あろうことか、
芋を焼いているつもりが
住んでいるアパートが焼けてしまい、
(火元は別部屋だったが)
高円寺に引っ越すこととなるのだ。

さて、そんなホットなひとときも、
時が経つにつれて変わっていく。

バンドをやり始めた冨士夫は、
“山口冨士夫”を意識するがごとく、
ヘヴィな正体を現していくのだった。

北鎌倉ではついぞ見たことがない
伝説の冨士夫を目撃することとなる。

「おおっ!これが、世間がいう、“あの山口冨士夫”なのか!」

気がついたときにはもう遅い。

変身した冨士夫に対応するために、
コチラも生活環境を変えて
いかなければならなかったのである。

思い切って会社を辞めることにした。
自由に動く時間が必要だったのだ。

結果、やっと自由人になれたと思った。
実際にフリーになってみると、
時間に余裕ができて、
実に良い気分だったのである。

得体が知れないと敬遠していた、
冨士夫周辺の摩訶不思議な人物たちも、
何故か親しみ深く見えてくる。
よく見りゃあ、みんな良い人ではないか。

しばらく冨士夫のフィールドで
日常にに接することにした。

基本的には価値観は同じで、
似たような景色を眺めているのだが、
見ている角度が違っている事が多かった。
そんなときは冨士夫の角度を尊重した。

しかし、今想うと、冨士夫も
同じ事をしてくれていたのだと想う。
いや、充分にコチラに
合わせてくれていた気がするのだ。

だからこそ、
冨士夫と関わるのは面白かったし、
ほんとうにたくさんのことを
教わった気がする。

それのどれもが、
今ではとてつもなく懐かしい。

まるで、遥か彼方の景色のように。

…………………………………………

『ゲームチェンジャーGame changer』とは、

これまで当たり前だった状況を
大きく一変させるような
出来事のことをいうのだとか。

もともとはサッカー用語で、
ゲームの流れを一気に変えて
しまうような選手のことだという。

僕の人生における
Game changerは、
まぎれもなく冨士夫であった。

その状況にゲームメイクしたのは、
当時の彼女とエミリなのかも知れないが。

さて、この度のコロナを契機にして、
Game changerと称して
世界が変革を求めている。

消費経済と民主主義との矛盾。
片寄ったリーダーの間違った方向性を
誰も止めることができずに、
世界はゆがんだまま回転していたのだ。

「この緊急事態が終わっても、世界は以前と同じような世界にはならないだろう」

と、グーグルのCEOは語っている。

感染の拡大により、
自宅にとどまる人が増えるなか、
デジタル情報や動画、
配信サービスやアプリなどを
活用する人が
大幅に増加するというのだ。

オンライン上での仕事、
医療、教育、買い物、娯楽などは
今後も増えていき、
気がついたら
『コロナ前』『コロナ後』という
名称で呼ばれるのかも知れない。

Game changerにより変化した流れが、
どのような展開になっていくのか、
共にゲームをするチームメイトによっても
違ってくると想うのである。

僕らの残り時間も
そう長くはない。

試合終了まで、
このまま守備を強化するのか、
それとも攻めに転じて行くのか、
迷うことろである。

「何を迷ってる!?そこから自由に蹴り込むんだ!」

冨士夫だったら
そう叫ぶのかもしれない。

この先に何があろうが、
最後まで走っているのだから。

(1977〜現在)

どんな冗談を言ったらいいのか解らないほどに、シリアスな状況が続いております。

どなた様も ご自愛ください。

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