153『新しい日常/六人組』
突然、暇になった。
何もかもが宙に浮き、
まるで時間が止まったかのようである。
季節変わりの天気を眺めながら、
はるか昔に想いを馳せてみる。
あの頃も、突然に変わってしまったのだ。
会社員と音楽マネージメントとの
馴れない二足のわらじを履いて、
早回しのハムスターように
くるくると廻っていた日常が、
がらりと変化したのであった。
僕にとっての20代は
面白いように仕事や
対人関係がつながった時期であった。
時代も良かったのだろう。
会社の日課の他にも
様々なフリーの仕事も受けていた。
それらがあったおかげで
音楽活動なども維持できたのだが、
多忙な日常の中で
徐々に無理が起きていくのだった。
そんなタイミングに、
「悪の巣屈みたいな会社なんか辞めちまってさ、オイラとどっぷりと組もうぜ」
と言っていた冨士夫が、
あろうことか、
1年間の旅に出て行った。
当然として『タンブリングス』も、
どうしようもなく
停滞していくこととなるのだ。
時間の観念を考え直すには
ちょうどいい頃合いだった気がする。
思い切って日常をリセットすることにした。
辞めるつもりの休暇願いを会社に出して、
ひと月もの間、
イギリスに飛んでみたのである。
それこそ何もしないで、
あてもなくロンドンやリーズを中心に
フラフラとしていただけなのだが、
とても良い気分転換になったのだ。
そうそう、
『グラストンベリー・フェスティバル』
を覗いてみるのもこの旅の目的だった。
´78年に再開されたこのフェスは、
当時で確か7〜8回目だったと思う。
個人農場で開かれているために、
広大な敷地の中は
とても自由な雰囲気だった。
70年代の夢のカリフォルニア
とまではいかないまでも、
青い空とピースフルな風景を
連想していたのである。
しかし、現実は違っていた。
英国特有の重く厚い雲が
空低くたれ込んでいて、
雨でズブズブに泥るんだ牧草地が
辺り一面に広がっていたのである。
その上を世界中のフリークたちが
歩き回っているのだ。
宿もとらずに現地に向かってしまったために、
僕はボストンバッグを抱えていた。
金とパスポート総てを持参しているのだ。
だから、油断ならなかったのである。
夢のフェスティバルで、
極東の小さな国から登って来たジャパニーズが
ビビって固まっていたのであった。
それでも可笑しなことがあった。
「へ〜イ、コロンビア」と、
コロンビア人らしき男にいきなりハグをされた。
“なんかの間違いだろう”
と思っていた出来事が、
一晩で3回も続くと気になってくる。
気がつくと、
輪になって愉しんでいる
南米グループの中に混じっていた。
どうやら僕はコロンビア人らしいのだ。
ボストンバッグを抱えた
ビビリの似非コロンビアンは、
一晩中をその小さな輪の中で過ごし、
朝方に隣りの優しいコロンビア人から、
旅のお守りをプレゼントされるのだった。
当時のイギリスはというと
景気がすこぶる悪く、
働き盛りのアーティストたちは
こぞって失業保険で喰っていた。
ロンドンで世話になった画家などは、
月に5万円分の画材代が国から支給され、
ソーホーにあるビルの一室を
無償で提供されていたのである。
考える暇もなく
馬車馬のように動き回ることが
当たり前だった身にとっては、
真逆に存在する日常であった。
国の文化に対する考え方の違いが、
とてつもなく羨ましく思えた。
急がずに生きている時間からは、
きっと、それなりに自分の人生を
深く読み取ることができるのだろう。
「キミは何をしている人なんだい?」
「どうゆう人生を想像しているの?」
行く先々の様々な人種のイギリス人たちが、
まるで哲学者のように訊いてくる。
“冨士夫を売り込めるチャンスがあるかも知れない”
と思って持参したカセットを
出会ったイギリス人たちに聴かせたら、
「オリジナルの曲はないのかい?」
と、全員に問われた。
「この音楽はコチラの文化だから」
と、言うのだ。
『ダイナマイツ』も『村八分』も、
ビートルズやストーンズのコピーだと
真顔で揶揄するのであった。
イギリスには仕事がなかったが、
考える時間があった。
金が無ければ歩けばいい。
現地の人間の真似をして
ロンドンの隅から隅までを
歩いて廻ったのを覚えている。
それで解ってくる
その国の文化もあるのだ。
いちばん大切なのは経済ではない。
帰る間際に、
そう気づかされるのだった。
時間がいくらあっても足りなくて、
何をするにも経済が優先する
極東の小国から来た身には、
それらの日々が、
“不思議の国”の日常に想えたのである。
………………………………………
帰国後、とっとと退社して自由の身になった。
空いた日常に、どっと、
時間が流れ込んでくる感じだった。
宙に浮いていた物事が
ハッキリと見えてくるのである。
そんな、新しい日常の中で、
冨士夫は『シーナ&ロケッツ』に参加し、
パンドラの箱を開けた少年少女が
新しい存在感に騒いでいた。
『タンブリングス』と『フールズ』は
浮かんで止まったままだったが、
そこから生まれた『ウィスキーズ』が、
上機嫌な演奏を聴かせていたのである。
………………………………………
そんな、1987年5月28日。
フリーになってから
1年近く経過した木曜の午後、
僕は沖縄にできたばかりの
『スクランブル』という巨大なDISCOにいた。
OPEN前なので客はいない。
というより貸し切っているのである。
ガランとした会場を抜けて
通路の途中にある楽屋を覗くと、
バンドのメンバーたちの明るい声と
リズミカルなクラップハンドが聴こえてきた。
リーダーのコウジュンを中心に
『六人組』の5人のメンバーが、
演奏前のルーティンを愉しんでいるのだ。
もうすぐここに、
ビル・ラズウェルが現れるのである。
ビル・ラズウェルは当時、
ハービー・ハンコックや
ミック・ジャガーなどを手がける、
話題のプロデューサーであった。
若くて才能あるベーシストでもあるビルが、
CBS SONYの中に自らのレーベルを作り、
そのプロデュース第一弾として
坂本龍一のアルバムを仕上げていた。
「2発目は『六人組』にしたいと想ってるんです」
CBS SONYのディレクターはそう言って、
得意気に鼻を鳴らした。
ビルが来日する成田空港から
そのまま乗り換えさせ、
沖縄まで飛んじゃおうと言うのだ。
「ビル・ラズウェル本人には伝えてないんですか?」
「アジア音楽に興味があるって言ってたから、サプライズするんですよ。何も知らずに沖縄まで飛んで、会場に着いたら『六人組』がステージに現れるって手はずです」
と、バブリーに微笑んだのだ。
デモテープを持ち込んでから1年余り。
やっと実現した具体案であった。
5月の沖縄は梅雨に入っているとはいえ、
この日は真夏のような蒸し暑さだった。
その、うだるような熱気の中、
大柄なビル・ラズウェルが、
『スクランブル』のロビーに現れたのである。
長袖ロングたけの上着に
ダボっとしたパンツ姿。
黒づくめの暑苦しいスタイルに
ハーフブーツまでを履いていた。
タッパもあるが割腹も良いので、
まるで怪しいカラスのようである。
そのビル・ラズウェルを
ガランとして誰も居ない
大きなダンスフロアに招き入れる。
無愛想にあご髭をなでながら
軽く会釈をするビルが、
会場の中央に設置された
ソファに腰掛けた瞬間だった。
いきなり、『六人組』が
ステージに現れたのだ。
かつての琉球王国を想わせる
重厚感のある音色と、
海流を漂うかのような
オリエンタルなサウンドのなか、
5人のシルエットが
キラビやかな照明の中に現れた。
沖縄の民族衣装を彷彿させる
コスチュームに身を包み、
ヴォーカルのミユキが
独特な腰回しでダンスのアクセントを
つけているのである。
果たして、アジアの音楽に興味を持つビルに、
この『六人組』はどう映っているのであろうか?
無愛想にあご髭をなでる
横顔を眺めながら、
次の展開を想像したのを覚えている。
………………………………………
あれからちょうど33年の月日が経った。
『六人組』はリーダーである
コウジュンの独壇場であった。
バンドの発想から企画構成、
作詞/作曲からアレンジまでをこなし、
経済的にもコウジュンが担っていた。
1985年にNHKのフェスで
『六人組』がグランプリを受賞して以来、
コウジュンの日常も
目まぐるしく変わったのであろう。
横に居ると、
周りからの様々な期待に
押し潰されそうになって、
苦しく咳き込んでいる
コウジュンを感じていた。
焦っていたのだ。
前例のなかった沖縄ポップスに対する
プレッシャーも相当なモノだったのだろう。
甘美なる称賛は、
すぐに冷たく変色していくのである。
『六人組』のメンバーは上京し、
コウジュンは西新宿を流れていた
神田川の畔に居を構えた。
僕の役割はココまでである。
続きは契約する事務所に任せて、
『六人組』とは離れることにした。
その年(1987)の暮れ、
冨士夫が再びフィールドに舞い戻ってきて、
僕の日常がガラリと変化した。
ジョニー・サンダースが現れ、
忌野清志郎さんを呼び、
クロコダイルで大騒ぎしながら
『TEARDROPS』結成へと続いていく。
その夏、東芝EMIと契約をし、
ファーストアルバムを作っているときだった。
「コウジュンにも参加してもらおうぜ」
と冨士夫が言い出したのだ。
意外にもロマンチストな冨士夫は、
『六人組』のサウンドが
お気に入りだったのである。
「好きな曲を選んでアレンジしてくれよ」
とコウジュンにオファーしたのだが、
出来上がってきたテープには
効果音が入っているだけだった。
「コウジュンの調子はどうなんだろう?」
僕らは少し心配になった覚えがある。
この時、
順調だと思われた『六人組』には、
様々なアクシデントがつきまとい、
制作そのもが宙に浮いていたのだから。
それでも、
『TEARDROP/らくがき』の楽譜は
コウジュンが起こし、
リットーミュージックから発売されている。
………………………………………
先日、この自粛の日々の中、
“冨士夫の夢をみた”って、
コウジュンからメールがきた。
よく訊くと、
それは随分と前にみた
夢の話らしかったが、
「自身のソロアルバム『水中庭園』を聴きたいっていうから、冨士夫にあげたんだ」
と言うのである。
調子のいい夢をみるもんだな、
なんて想ったりもしたが、
けっこう僕の夢にも
そーゆー役割で
冨士夫が出てくる時がある。
そんな冨士夫の優しさや存在感は、
無意識に僕らの心の奥底へと
刻まれているのかも知れない。
久保田麻琴さんのプロデュースで
『六人組』の音源もやっと発売するらしい。
“宙に浮いていたあの時の日常が、33年を経てやっと現実になるのである”
ここしばらくは、
コウジュンと会っていない。
僕の事を「ヘンな人だ」って思っていたらしい、
『六人組』のメンバーともあれっきりである。
完全に自粛が明けたら、
沖縄にでも行ってみようかと想うのだ。
浮き世話を肴に、
宙に浮いた日常を、
ひとつずつ確かめてみたいのである。
あのときの、
あのまま、
止まっていた僕たちの時間が、
いま、やっと動き出したのだから…。
(1986年〜今)
PS/
沖縄のバンド“六人組”が結成36年目にして初のフル・アルバム『1984-88』をリリース 久保田麻琴がマスタリング。
■ 2020年7月22日(水)発売
六人組『1984-88』
CD FJSP-394 2,500円 + 税
『六人組』/國場幸順(dr)、ミユキ(vo)、矢野憲治(g)、金城浩樹 (b)、玉城さとみ(key)
1984年 結成の六人組は、1985年に「NHKヤング・ミュージック・フェスティバル」の全国大会で渋谷陽一、矢野顕子、林 立夫、ピーター・バラカンら審査員の満場一致でグランプリを受賞。その後、Bill Laswellプロデュースでのアルバム・デビュー内定に伴って上京したものの、度重なるアクシデントによって正式な音源を残すことなく1988年に解散 している。