168『最終話』
『藻の月』の若きギタリスト・レンが、
森の中に引っ越した。
鳥の鳴き声と川のせせらぎが
心地良い “緑の中”に、である。
名栗渓谷から流れる川に沿って、
一本の山道をひたすら登って行くと、
川の反対側に数件の集落が見えてくる。
誘われるままに小さな橋を渡り
夏草の香る土道を行くと、
風に揺れる樹々を背景にして
少年のような振る舞いで
レンが立っていた。
口元に笑みを浮かべながら
軽く手を上げて手招きをしている姿に、
伸びた初夏の日差しが反射して眩しい。
「いまは、どっぷりと音楽に浸っていたいんだ」
人生のフィールドを
まだ23周しかしていない青春は、
皆がひた走っているトラックから抜け出し、
早くも独自の時間を
創ろうとしているように映った。
目的は“音の出せる環境をどう作るか”である。
古い民家を改造しながら住み、
スタジオ的な要素も含めた
音楽の世界に没頭しようというわけだ。
「ストーンズの『Exile On Main St (メイン・ストリートのならず者)』みたいに、ここで録音するか」
楽器やら音楽関係の機材が置かれている
奥の部屋を眺めていたジョージが、
探し物が見つかったような
まん丸な目をしながら言った。
「そーゆーことがしたいんだよね」
レンも大きく頷いている。
大家さんが家族で住んでいたという古民家は、
使ってない(修繕しないと使えない)部屋も含めると、
軽く10部屋を超えるスペースがある。
音楽家や芸術家にとっては
めっけもんの環境なのだった。
窓からこぼれ落ちる
木漏れ日を眺めながら、
ふっと、
自分がトラックを23周していた頃の
‘70年代の後期を思い出した。
あの頃の僕は学校は卒業したものの、
勤める気分にもなれず、
ダラダラとイラストを描きながら過ごしていた。
しかしである、
こんなことじゃイカンという自我に突然目覚め、
バァちゃんに紹介してもらった
『パリでラーメン屋をやっている日本人』
を訪ねて海を渡るところだったのだ。
(なんでバァちゃんがそんな人を知っていたのかは忘れたが…)
しかし、親父がそれを阻止した。
息子がエッフェル塔をバックに
野垂れ死ぬ構図でも思い浮かべたのだろう。
「やめておいた方がいいだろう」
咥えタバコで、
そう言われたのを覚えている。
すると、何故か親父の味方をした神様は、
すぐに“ぐうたら息子”に子供を授け、
家族と勤める会社を与え、
北鎌倉に住居を見つけたのであった。
そこに冨士夫が登場するのだ。
サラサラと降り注ぐ散り桜と共に
突然に転がり込んで来たのであった。
さて、そこからなのだ、
この『よもヤバ話』の始まりは。
これだから、
行き当たりばったり人生はたまらない。
いや、たまらなく面白いのかも知れない。
我が人生に分岐点があるならば、
“あそこだな”っと、
ずっと思い起こすことになるのである。
いや、後悔しているのではない。
この人生は面白いと思うし、
出逢いにも恵まれた気がする。
ただ、ずーっと長い間、
繰り返しトラックを回り続けていると
23周目のあの時を“フッと”思い出し、
固まってしまう時があるのだ。
ほんと、
ただそれだけのことなのである。
……………………………………
さて、今年も春になり、
緑が芽吹き、花が咲き、
梅雨になろうとしている。
初夏から猛暑になる頃は、
冨士夫も没後8年目の
お盆を迎えることになるのだ。
僕はなんだかんだいっても、
春から夏の終わりにかけての
半年間に渡る季節が好きだ。
それは、冨士夫が我が家に
転がり込んできた春から、
横浜に移り住む半年間と重なるが、
振り返ると、
そこが、我が人生の中で
格別に印象に残る
時間であるからなのかも知れない。
そこから『アトモスフィア』Rec.
までの約10年間、
僕は冨士夫と密なる時間を過ごした。
冨士夫の存在は日々の中心にあったし、
毎日の喜怒哀楽を左右する
指針だったような気がする。
思い起こせば、
出会った頃の冨士夫は音楽を辞めていた。
だから、まったくの別人格だったのだ。
出会ったばかりの冨士夫は、
その後すぐに『焼き芋屋』になり、
「銀座まで流して行くこともあるんだぜ」と、
意味不明な自慢話をしてくれるような人で、
それはそれは、穏やかな口調で、
『焼き芋屋』になった同僚たちから聞いた
“転落から復活する焼き芋リベンジ人生論”
なるものを語ってくれたりした。
「俺も百万稼いだら、とっとと辞めてやるんだ」と、
目を輝かせながら芋を焼いていたのだが、
どーゆー神の悪戯か、
住んでいたアパートが
在庫の芋ごと丸焼けになってしまったのであった。
そこからは、
度重なる世間のリクエストに応えて、
再びミュージシャンに返り咲くことになる。
それは、まさに、世間的には、
(あの)山口冨士夫の復活劇であり、
僕にとっては、
(驚くほど過激な)ロックな冨士夫を
発見する日々になったのであった。
しかし、考えてみれば、冨士夫は寛大であった。
右も左も解らぬド素人マネージャーが
ブッキングするライブを、
文句も言わずにこなしてくれたのだ。
(あの)山口冨士夫が、である。
「先手必勝だね」とか、
「先行逃げ切りなのか?」と、
苦笑いをしながらの評価ではあったが、
決して悪くは言われなかった気がする。
僕は物事を始めると、
なんでも上手くいくような気がして、
浅い湿地帯をポンポンと
跳ねるように進む癖があるのだが、
そんな浅い行動力に
一応は任せてくれていたのだと思う。
そんなだから、
時折、ズボッと
深みにはまったりするのだが、
僕自身はあまり気にならない。
でも、振り返ると、
冨士夫は心配だったのだろう。
「決めるときは俺に相談してくれよな」とか、
(当たり前の話だが)
「もう一度、反対の方向から考えてみてくれねぇか。それでも大丈夫だったら行こうぜ」
な〜んて、
よく言われたのを覚えている。
“なんだよ、心配性だな”って、
面倒に思ったこともあったが、
ほんと、申し訳なかったと思う。
なんてったって、
ずっと付き合ってくれた相手は、
(あの)山口冨士夫だったのだ。
『山口冨士夫とよもヤバ話』を書いて、
改めて思い知らされた気がするのである。
……………………………………
冨士夫の没後、
2年目の春から書いてきた
『山口冨士夫とよもヤバ話』も、
今年で6年の年月を迎えた。
最初は、当時を思い出すのが楽しかった。
自分も含めた全ての仲間が若かったし、
時代そのものもバブルだったから、
世間の動きそのものに
行動力があったのだと思う。
そんな時代の人は、
世間の粗探しをしないのものだ。
ちょっとした間違いは、
一周回って笑い話にする
センスを持っていたのだと思う。
実際のストーリーを追いながら
書いていた内容も、
けっこう間違っているところがあり、
ライブで出会う仲間たちに
たびたび指摘されたりした。
そんな時は、
指摘された箇所そのものより、
同じ時代に生きている仲間たちが
『山口冨士夫とよもヤバ話』
を読んでくれている
ことの方がとても嬉しく思えた。
ただ、間違っていたり、
作り話っぽくなっちゃったりして、
ご迷惑をおかけした人が
いるのならお詫びをしたい。
申し訳ありませんでした。
さて、そんなこんなで、
ここらで『山口冨士夫とよもヤバ話』を終え、
冨士夫や仲間達のシーンから
次に移行していかなければならない。
「そろそろここで終いにしねぇか」
冨士夫だったら、
なみなみとビールをコップに注ぎ、
キッパリとそう言うだろう。
「ちょっと、惜しいけどな」
青ちゃんは、
ニヤリと意味ありげに笑い、
そう付け加えるかも知れない。
「そんなことより、早くつまみを頼もうぜ」
壁に並んだ品書きが気になるのか、
佐瀬が髭もとをゆるませながら、声を張った。
「まったく、トシはどうしようもねぇなぁ」
段取りの悪いマネージャーに
業をにやしたカズが、
自ら席を立って
メニューを取りに行く姿が見える。
ずっと、僕らはこんな風だったのだ。
仲が良いのか、悪いのか。
気が合うのか、合わないのか。
ジタバタドタバタと毎日を過ごす中で、
窓からは相変わらずの風が吹き、
いつの間にかに一日が暮れて、
「おつかれさん!まぁ、いっぱいやろうや」
って、呑んでいたような気がする。
そこに、たまたま奇跡のような
夕焼け色が皆の顔を照らしたりすると、
「なんだ、呑む前からみんなの顔が真っ赤じゃねぇか」
なんて、
冨士夫がみんなを笑わせようとして、
つまんないジョークを言ったりするのだ。
そんな時の僕らは、
まるで時間を惜しむかのように笑った。
お互いを見合わせ、
腹の底からゲラゲラ笑うのである。
そんな時代の、
かけがえのない仲間たちを、
僕は決して忘れないだろう。
かけがえのない時間と、
遥かなる想いに“乾杯”なのだ。
さて、最後だから本心を言おうと思う。
この168話じゃ、何も言えちゃいないのだ。
実を言うと、あの頃の僕らは、
ほんとうに『ヤバかった』のである。
(終わり)
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